Tuesday, February 17, 2026

海へ押し出される街の影 東京 1960年から1975年

海へ押し出される街の影 東京 1960年から1975年

最終処分場の確保が難題になるのは、土地が足りないからだけではありません。都市の中心で毎日生まれるごみが、最終的には都市の外縁へ運ばれ、そこで埋め立てられるという分業が固定されると、発生地と処分地の距離が広がり、負担の偏りが強まります。運搬は長距離化して費用と交通負荷が増え、受け入れ側には悪臭や害虫、景観の悪化、浸出水やガスへの不安が集中します。こうしてごみは見えにくい場所へ追いやられますが、対立の火種は、むしろ都市全体に広がります。

高度経済成長期の東京では、ごみの量が爆発的に増えました。焼却施設の整備が追いつかなければ、燃やして減らしてから埋めるという基本動作が崩れ、埋立に回る量が増え、処分場の残余容量は急速に縮みます。施設整備と運用が遅れた時代には、逼迫が社会問題化しやすい構造そのものは変わりません。

用地不足に並ぶもう一つの壁が、合意形成です。処分場は遮水や集排水などの技術で安全性を高めますが、住民の側から見れば、一度受け入れれば戻れないという感覚が残ります。水源への影響や将来の漏えいリスク、風評被害への恐れは、数字の説明だけでは消えません。候補地の提示や調査の段階で反対が強まり、計画が停滞するほど、延命要請や広域搬入が繰り返され、負担の偏りがさらに増幅されます。

東京では、一九七一年年前後にこの偏りが表面化しました。江東区は夢の島などで悪臭やハエに悩まされ、自区内処理が進まないことへの不満を募らせました。一方、杉並区では清掃工場建設をめぐる反対運動が広がり、いわゆるごみ戦争へと発展します。都市の内部で、処分地と発生地の責任をめぐる緊張が高まりました。

大都市では内陸部での用地確保が難しく、海面処分場が重要な受け皿になります。東京港では新海面処分場が整備され、延命措置が講じられました。しかし、それも恒久的な解決ではありません。量の問題、場所の問題、そして合意の問題が絡み合い、処分場確保の困難は繰り返されます。ごみは都市の外へ消えるのではなく、見えにくい場所へ移されるだけなのです。

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