浅草観音劇場の熱と空回り 紅緑と三笠万理子の場と時 1917年から1924年
回想は浅草の観音劇場を舞台に始まる。佐藤紅緑はこの劇場を引き受け、惚れ込んだ三笠万理子を世に出すため、毎月一本ずつ新作を書いて興行を回したという。客席の熱はあったが、文壇の評価は伸び悩み、後援者の尽力にもかかわらず歯車は最後まで噛み合わない。熱と才気があっても、作品が受け止められる場と時が揃わなければ成果は生まれないという、芸能の厳しさが行間から滲む。
当時の浅草六区は映画館と軽演劇と歌劇が肩を並べる雑食の都だった。大正期の浅草オペラが低料金と新奇さで観客を吸い寄せる一方、舞台は新作の消費速度に追い立てられ、観客は次の刺激を求めて劇場を渡り歩いた。そこへ関東大震災の打撃が重なり、地図も嗜好も一気に組み替わる。毎月の力業は話題にはなっても、持続的な格付けへは届きにくい。観音劇場という器の大きさと街の速度が、個人の情熱を追い越していった。
紅緑はやがて筆一本に軸足を移しつつ、映画にも活路を探る。1923年に欧州で研究を重ね、1924年には東亜キネマの所長に就く。万理子を映画で売り出そうとしたが、身内びいきの風評もあって波に乗り切れず、彼女は出産を機に舞台から離れる。舞台でも映画でも、推す人と推される人と受け止める場の三つが噛み合わねば光は定着しない。浅草の熱気は確かだったが、時代の回路は別の方向へ回り始めていた。
この小さな挿話が示すのは、成功譚の影にある条件の非情さである。場の磁場、時の機嫌、観客の気分。どれか一つが欠ければ、情熱は空回りに変わる。紅緑と万理子の試みは敗れたが、そこで擦れた火花は、その後の映画と文芸の歩みに微かな反射を残した。浅草の舞台裏に貼りついたその温度こそが、1920年代という季節の輪郭をいまに伝えている。
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