生活から政治へ――1978年春・「市民政治学校」をめぐる空気
高度経済成長が踊り場を迎えた1970年代後半、日本社会には三つの潮流が重なっていました。第一に、公害訴訟の進展と1970年の"公害国会"以降の規制強化で、専門家と住民が連帯して行政・企業の説明責任を問う文化が根づいたこと。第二に、73年の第一次石油危機で"安定成長"へ舵を切った結果、物価・雇用・地方の財政など身近な不安が膨らみ、イデオロギー対立よりも「暮らしを守る実務」への関心が強まったこと。第三に、学生運動の退潮後に広がった「住民運動」や草の根学習会で、政治参加の敷居が下がっていったことです。
こうした地盤の上に登場するのが、宇井純・中村武志が講師に名を連ねた「市民政治学校」。主催は革新自由連合(革自連)で、初回は4月22日18時〜21時、会場は都市センター講堂、聴講料は500円という設定でした。イベント欄の記載として日時・会場・主催・参加費が明記されており、「学びを実践へ」という姿勢を可視化しています。
1978年春の誌面には、同じ"参加型"の企てが並列して現れます。たとえば永六輔・小室等らが出演し、政治を笑いと歌で語る「政治寄席」。4月27日、上野・本牧亭で木戸銭1000円と告知され、政治を日常の言葉で共有する試みが文化イベントの形で定着していたことがわかります。 また、片岡義男・袖井林二郎・田原総一朗らが講師を務める「ジャーナリスト教室」(5月開講、6か月・授業料6万円)の案内もあり、市民が記者的技能を学ぶ機会が市場化・制度化されつつあった様子がうかがえます。
これらの同時的な現れ方が示すのは、70年代末の関心の重心が「抽象的な体制論争」から「生活者の政治技法」へ移っていたという事実です。市民政治学校は、専門知を"上から与える"のではなく、当事者の経験に結びつけて運動化するための共有地(コモンズ)でした。安価で通いやすい時間帯設定、公共的な会場、そして雑誌の催事欄に同列で載る"気軽さ"――これらは政治参加のハードルを下げ、知識と実践の往復運動を促しました。
さらに重要なのは、文化と政治の越境です。演芸・音楽・映画の告知と、政治講座・市民学校の告知が同じ紙面に並ぶ編集構成そのものが、「政治は生活文化の一部である」という70年代的センスを体現しています。政治寄席のような"笑いの回路"が緊張をほどき、学びの場が実務の回路を開く。両者の往還が、翌79年の第二次石油危機を前に、分散型でしなやかな市民の防衛線を用意していった――当時の"空気"は、そう総括できます。
No comments:
Post a Comment