Wednesday, September 9, 2026

裁判の火をくぐり文壇を駆けた伊藤整 1905年から1969年

伊藤整は1905年北海道に生まれ、小樽高等商業学校を経て文学へ進みました。1926年には詩集「雪明りの路」を自費出版し、その後は小説、評論、翻訳へ活動を広げます。戦後には「鳴海仙吉」「火の鳥」などを発表し、批評家、小説家として文壇の中心的存在となりました。資料でも、裁判の渦中にありながら流行作家へ転身していく姿が紹介されています。 その転機となったのが、1950年に刊行したD・H・ローレンス「チャタレイ夫人の恋人」の完訳です。性描写が刑法175条の猥褻文書に当たるとして、出版社社長の小山久二郎とともに起訴されました。一審を経て二審では伊藤にも罰金刑が科され、1957年に最高裁で有罪が確定しました。裁判は単なる出版事件ではなく、文学的価値と猥褻性、憲法上の表現の自由をめぐる大きな論争となりました。 しかし伊藤は裁判だけの作家ではありません。その後も創作を続け、大作「日本文壇史」に取り組み、近代日本文学そのものを歴史的に描こうとしました。翻訳、創作、評論、文学史を横断し、裁判という社会的事件さえ作家活動の一部として引き受けながら、戦後文学を代表する存在へ成長していった人物といえます。

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