私という名を、越えてゆくために 一九六九年の記憶
私は1969年という時代に、部落の町で呼吸していた。
舗装されていない道、木造の長屋、名前を言うたびにどこかで冷たい目を感じる日々。
誰もが見ないふりをしていたが、そこには確かに線が引かれていた。
水平社の理想と、僕らの現実
私たちが誇りに思っていたはずの全国水平社。
その創設者たちが掲げた人間の解放という言葉は、あまりにまっすぐだった。
けれど、時が経つにつれて、いつのまにか部落民の権利要求へと狭められていったように感じる。
誇りを持てと言われれば、うなずくこともできる。
でも、それは、誰かに違いを突きつけられたあとに、ようやく取り戻そうとするものだった。
ありがた迷惑という贈り物
同和対策事業。道が整備され、住宅が新しくなる。
ありがたい。けれど、それがどこかで差別がある前提に立った対策であると、私たちは知っていた。
役所の職員が言う。ここは同和地区ですから。
その一言が、私に、もうひとつの烙印を押す。
私は、またしても普通ではないことを、行政に証明されてしまったのだ。
糾弾という名の沈黙
あの頃、差別発言には、容赦のない糾弾が行われた。
マイクの前で頭を下げさせる光景。涙を流す人もいた。
でも、それがほんとうに差別をなくすためだったのか。
あるときから私は疑い始めた。
糾弾が、人を理解させるのではなく、ただ屈服させる儀式になってしまったとき、
私のなかにあった運動への信頼も、少しずつすり減っていった。
イデオロギーに呑み込まれた言葉
部落解放運動が、社会主義や共産主義と手を結びはじめた。
資本主義が差別を生む構造だと言われる。なるほどと思った。
でも、そのうちに、運動が誰かの道具になっているように見えた。
学生運動の指導者たちは、君らもデモに来いと言ったけれど、
私たちには、私たち自身の言葉があった。
それを横から正しい言葉に塗りかえられるのは、たまらなく苦しかった。
名を越えて、私であること
文書には、部落民という自己定義を超えて、人間の解放を考えるべきだと書かれていた。
私はその言葉に、胸を突かれた。
自分が部落出身者であることに誇りを持て。たしかにそうだ。
でも、誇りのまえに、自由がほしかった。
誰の目も気にせず、自分の声で笑い、怒り、好きな道を歩ける、そんな当たり前が、私はずっとほしかった。
私の1969年
あの年。
日本中がざわめきに満ちていた。
大学はバリケードに包まれ、新聞は政治と学生運動の話で埋まった。
その中で、部落の私たちも、確かに声をあげようとしていた。
でも私の声は、小さく、揺れていた。
怒りでもなく、正義でもない。
ただ、私を、まるごと見てほしい。そう願っていた。
関連情報(参考になる資料)
部落出身者として、あの時代を知りたい、考えたいと願う人のために。
ここにいくつかの資料を記します。
加藤直樹『差別の日本近現代史』
角岡伸彦『部落問題とはなにか』
上原善広『日本の路地を旅する』
法務省 人権啓発資料(人権擁護局)
部落解放同盟 中央本部
反差別国際運動 IMADR
部落に生まれた私は、いまも自分の声を探している。
それは誰かに届くかもしれないし、届かないかもしれない。
けれど、私は、声を上げ続ける。
部落民という名前の奥にある、私というひとりの人間として。
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