夜桜の背に宿る誇り 昭和三七年から三八年 博多に咲いた侠の花
昭和三十七年一月十六日。
冬の博多に、銃声が一発響いた。撃たれたのは、地元で"夜桜銀次"と呼ばれた侠客、平尾国人だった。
その日、福岡市内のアパートにいた彼は、背後から銃撃され、床に倒れた。命はつながったものの、街に不穏な空気が広がった。
平尾国人は、大分県の出身で、かつては山口組石井組に名を連ねた男。別府抗争での武名も高く、博多に流れてからは若衆に喧嘩の流儀と筋の通し方を教えていた。
その平尾を撃ったのは、久留米市の鳥巣組の構成員。表向きには金銭トラブルとされたが、山口組上層部はこの襲撃を、地元の宮本組によるものと誤認した。
この誤解が、昭和三十八年、山口組と宮本組の対立へと発展する。
当時、山口組は田岡一雄三代目のもと、全国進出を進めていた。九州も例外ではなく、福岡に出先を設け、地場に勢力を広げようと画策していた。
一方、地元の宮本組――宮本健一組長のもとで根を張った組織は、外部からの進出に強く反発する。「博多は博多もんのもんばい」という意識は、若衆たちの間にも浸透していた。
街では、にらみ合いが続き、発砲事件や暴行事件が相次いだ。
だが、そんな時――再び名が上がったのが、平尾国人だった。
背中に銃創を負いながらも、彼は立ち上がった。復讐に走ることもなく、山口組にも宮本組にも与せず、ただ一つ「博多の秩序」を守ることに身を捧げた。
ある晩、山口組系の出先に一人で乗り込み、煙草を一本くゆらせながら静かに言った。
「ここで刀抜いたら、咲いた桜も散るばい」
その言葉はやがて双方の幹部たちに届き、さらには地元の大野組が仲裁に乗り出したことで、抗争は大規模な流血に至らずに収束を迎えることとなった。
平尾は撃たれたまま、春を見た。
夜桜のように儚く、されど強く、筋を通して咲き続けた男だった。
後年、彼を描いた実録漫画や映画が制作され、博多に残る侠の記憶として今も語られている。
夜桜銀次。
その名は、冬の銃声とともに、博多の夜風に刻まれている。
【関連情報】
・襲撃事件は昭和三十七年一月十六日、福岡市内のアパートで発生。
・加害者は久留米市の鳥巣組構成員。金銭トラブルとされるが、山口組は宮本組の犯行と誤認。
・抗争は昭和三十八年に表面化。山口組の九州進出に宮本組が反発。
・地元の大野組が仲裁に入り、大規模抗争には至らず収束。
・参考文献:
山口組外伝 九州進攻作戦(東映、一九七四年)
実録山口組抗争史 夜桜銀次と博多戦争編(竹書房、二〇〇六年)
突破ヤクザ伝 夜桜銀次 平尾国人
・ウィキペディア「夜桜銀次事件」にも記録あり(URL省略)
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