Wednesday, December 31, 2025

思考が外に出る夜 科学による人間能力の過剰強化 20世紀後半から21世紀初頭

思考が外に出る夜 科学による人間能力の過剰強化 20世紀後半から21世紀初頭

第二次世界大戦後の世界は、科学技術が人間の苦痛と制約を減らすという確信に支えられていた。医療の進歩は感染症の脅威を押し下げ、産業技術は生活を豊かにし、情報技術は知的作業を高速化した。冷戦期には軍事と研究が結びつき、予測、制御、通信を中核に据えた発想が社会へ広がっていく。ここで科学は、ただの道具ではなく、国や企業が未来を設計するための基盤になった。

この流れの中で、人間能力の拡張は、補助から強化へと質的に変わる。筋力は機械に委ねられ、感覚は計測装置で増幅され、記憶や計算はコンピュータへ移された。半導体の集積度が加速度的に伸びるという見通しは、計算機の性能向上を長期トレンドとして社会に埋め込み、人間の知的活動を外部装置で増強することを当然の方向へ押し進めた。

やがて問題は、強化の程度ではなく、強化の帰結へ移る。知性が人間の内側にある資質ではなく、外部で生成され運用される機能として扱われ始めると、知性は人間から分離し得る。人間が判断しているつもりでも、重要な選別や推薦や最適化は、仕組みの側で先回りして行われる。ここで起きるのは、人間が機械を使うという関係の反転ではなく、人間の行為が知性の外部化によって再編成されるという事態である。

この転換点を思想として描いた代表例として、ユヴァル・ノア・ハラリのホモ・デウスがある。同書は、人類が不死、幸福、神性を目標化する過程で、人間中心主義が揺らぎ、データと仕組みが意思決定の中心へ移る可能性を語る。技術の進歩が、そのまま人間の尊厳や自由の増大に結びつくとは限らない、という警告として読むことができる。

当時の時代背景として重要なのは、技術が善であるという空気が長く維持されたことだ。高度成長の成功体験と、冷戦の競争圧力と、市場の効率化が重なり、早いこと、大きいこと、正確なことが価値として固定された。その価値に合わせて、人間の側も最適化される。迷い、遅さ、曖昧さは非効率とされ、感情や経験の厚みは誤差として扱われやすくなる。知能を極端に強化するほど、人間らしさを支えてきた条件が削られていくという逆説が、ここにある。

科学による人間能力の過剰強化は、どこまでできるかではなく、何を残すかを問う。知性を外部へ移すほど、便利さは増えるが、責任の所在、意味の手触り、生の有限性が支えてきた緊張感が薄れる。必要なのは技術を止めることではなく、技術が人間の目的を代替しないように、目的を言語化し、共同の歯止めを作ることである。人間が人間であり続ける条件をどこに置くのか。そこが、20世紀後半から21世紀初頭にかけて表面化した最大の分岐点である。

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