攘夷の旗と聖書の頁――フルベッキ邸に集った若者たちの現実主義(幕末から明治初年 一八六〇年代後半から一八七〇年代初頭)
幕末から明治初年にかけての日本では、尊皇攘夷は単なる思想ではなく、社会的正統性を示すための必須の言語だった。異国を排し、天皇を戴くという姿勢を明確にしなければ、政治的信用は一瞬で失われる。その一方で、欧米列強との接触が避けられなくなった現実の中では、異文化理解なしに国家の存続はあり得なかった。理念と現実の緊張が、日常のあらゆる場面に張り付いていた時代である。
そうした状況の中で、佐賀出身の大隈重信と副島種臣が、宣教師グイド・フルベッキの私邸に出入りし、キリスト教を学んでいたことは、周囲に強い違和感を与えた。尊皇攘夷を唱える人物が、邪宗と忌避されてきたキリスト教に触れている。その事実は、思想的裏切りや攘夷の仮面といった噂を生み、彼らの政治的立場を危うくする材料となった。
しかし、この行動は信仰への転向ではなかった。彼らにとってキリスト教は、祈りの対象ではなく、西洋社会を理解するための知的資源だった。欧米諸国において宗教は、倫理観や正義の感覚、さらには国際世論の基盤を形づくる重要な要素である。その仕組みを知らずに外交交渉を行うことは、相手の思考の前提を欠いたまま議論するに等しかった。
大隈が後年、キリスト教の知識が外交で大きな力になったと回想していることは象徴的である。相手が何を善とし、何を正当と考えるのかを理解することが、国益を守るうえで不可欠だった。尊皇攘夷を掲げながら、異国の思想を学ぶという態度は、矛盾ではあるが無自覚な混乱ではない。理念と実務を切り分ける、きわめて意識的な戦略だった。
ここに現れているのは、思想的純粋さよりも実際の効果を優先する近代日本特有の現実主義である。国内秩序を保つためには尊皇攘夷という言葉が必要であり、対外関係を切り抜けるためには西洋思想の理解が不可欠だった。その二重構造を引き受ける覚悟が、彼らにはあった。
この姿勢は、やがて明治国家の基本的性格となる。天皇制という象徴的秩序を守りながら、西洋の法制度、軍事、産業、倫理観を大胆に取り込む。その原型は、すでにフルベッキ邸の静かな応接室で形づくられていた。攘夷の旗と聖書の頁は、対立するものではなく、生き延びるために同時に抱え込まれた現実だったのである。
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