2024年8月10日土曜日

ベルクソン「物質と記憶」第3章 イマージュの残存について - 記憶力と精神

21 純粋記憶

第3章に入り、ベルクソンはこれまでの内容をまとめるとともに、純粋記憶について説明します。

知覚は身体の外にあり、純粋記憶は身体の中にあり、時間軸上に蓄積されていきます。

ですが、身体の中の純粋記憶とは、数学的に定義される離散的な点ではなく、過去にも未来にもくい入っている連続体です。

また、純粋記憶、記憶心像、知覚は、グラデーションになっており、どこで終わってこどから始まるか正確に言う事はできません。

さらに、2章に冒頭で定義した2種類の記憶、運動機構として保存されるものと、独立的な記憶のうち、純粋記憶は後者の独立的な記憶です。

そのため、ベルクソンはこれに対応して、2種類の表現を用意しています。思い浮かべることと、回想する事です。

つまり、1番目の記憶は物質になって反復的に繰り返されるのに対し、純粋記憶は一度きりで繰り返すことがありません。

そのため、純粋記憶を思い浮かべるためには、過去に一気に身を置くことが必要になります。

この連続体は、数学的な点で構成されていないため、連続体の現在は、感覚・運動的なものになります。


22 現在とは何か

この節では、記憶心像を純粋知覚に投射する現在について語っています。

ベルクソンの著作では、質的に違うものが連続している、という表現がよく出てきます。

ここでは、純粋記憶と現在的感覚は質的に違うものであることを示しています。

先ほどの節では、純粋記憶と、記憶心像、純粋知覚は質的に違うものであり、どこから始まってどこから終わるか分からないとしていましたが、純粋記憶と現在的感覚も同様です。

この質的な差異を念頭に置く、というのは創造的進化でも動物や植物の話で出てきます。

直交する表現を使っています。つまり、純粋記憶と、記憶心像、純粋知覚の流れに対し、現在の瞬間が垂直方法に裁断を入れており、その結果出てくるのが現実的感覚です。

また、本書全体のポイントして、何か広がりを持ち、何が持たないかということを何度も確認します。

知覚と感覚は本質上、拡がりを持ち、局限される。

対して、現在的感覚に混入してこない純粋記憶は、現在との接触を欠いている限り無力で、結果としてひろがりを持たない事になります。

このひろがりをもたない記憶が今という瞬間に現実化する術を表現するのに、ベルクソンはひろがりに代わって、緊張と集中という言葉を用いています。


23 無意識について

この節、無意識については、正確には無意識の保存についてと言うのが正しいでしょう。

現在は、知覚(空間)と記憶(時間)の交点であり、この交点が身体です。

この節の図では、X軸上が空間になっており、Y軸は時間軸で上から下へ時間が流れています。

空間はX軸上に併存する諸事物を、限りなく保存していくのに対して、時間は継起する諸状態を、限りなく破壊していくように見えるとしています。

実際は、破壊されていくように見えますが、存在が無力(無益)になるだけであり、記憶は無意識として蓄積されていくことになります。

熱力学第二法則がありますが、これは宇宙全体のエントロピー(情報量)は増え続ける、というものです。

ベルクソンの言う記憶もこれに近いものがあり、記憶は空間に展開されることなく、そのもの自体として蓄積・存在し続ける、ということです。

この記憶の蓄積と意識の流れは、不可分割で測定ができないため、過去と現在の間では、空間上で展開されるような厳密な数学的導出を受け付けないとしています。

結論としては、過去がそれ自体で残存するということは、どんな形にせよ、免れるわけにはいかないとしています。


24 現在と過去の関係

この節では、記憶が空間(脳)に保存されないとすると、いかにして自らを保存するのかということについて述べています。

これに対して、ベルクソンの答えの1つとしては、我々が知覚しているものは本質的に過去である、ということです。

時間軸上に記憶が蓄積されていくということは、現在は今存在するものではなく、出来つつあるものであり、不可分な流れがそこにあるだけだとしています。

また、この節でベルクソンは「長い回り道をして戻ってきた」と言っています。

これは2章の初めにあったように、記憶には2種類あり、運動機構として保存される記憶と、そのもの独立して蓄積される記憶の2つの関係を円錐を使って表現しています。

第一の運動機構としての記憶は、円錐の先端が空間の平面に接するところであり、ここに人間の体があります。

第二のものは、心身の心に該当するものであり、これは円錐の先端以外の部分を指します。

この表現は、この2つの機能(記憶)が互いに支持を与え合うことを意味しています。

また、この円錐を、意識が未来へと傾きつつ、実現をめざす過去の部分を、瞬間瞬間でその光で照らし出す、という表現をしており、これは後の「創造的進化」の生命の意識の流れにつながって行きます。


25 一般観念と記憶力

第3章のタイトルは、イマージュの残存となっています。

1章の始めで、すべてはイマージュであるという旨のことを言っているので、イマージュの残存は、記憶がどのように保存されるかと解釈してもいいでしょう。

イマージュの知覚に混入する記憶は、円錐の形で保存されている、または生成され続けます。

記憶は下の平面(知覚の空間)方向に流れるもので、この円錐と平面の交点が現在(身体)です。

ベルグソンはこのような形で心身を統合しますが、円錐の上方向は、「夢見られる」記憶であり、生活の必要性とは離れたもので、2種類目の記憶に当たります。

交点にある知覚は、1番目の知覚であり、これは物質上で絶えず反復します。

観念とは、円錐の上方向に配置されているものであり、おそらく円錐を上昇すれば、増加し、豊かになっていくと考えられます。

記憶は下方向に働くため、観念によって類似にまとめられる知覚に対し、下降して差異を与えるものが記憶の働きになります。

ベルクソンは次のように述べています。

「記憶力は自然発生的に抽象された累次に差別を付け加え、悟性は類似による習慣から明晰な一般性の観念を取り出すのである。」

また、円錐と平面の交点の部分は感覚的・運動的状態であり、上方向へ行くにつれ、知覚に混入する記憶は夢想の生活に拡散していきます。


26 観念連合

この節では、観念連合には2種類あると述べています。

1つは、類似の連合です。これは、現在の知覚が、過去の近くの影響を受けることを言います。

2つ目は、近接の連合です。これは、知覚の結果生じた運動が、次に知覚する場所に影響することを言います。

しかしながら、記憶の連合について、類似と近接はメカニズムを説明しているだけであって、なぜ連想そのものが起こるのかということの説明にはなりません。

つまり、イマージュ同士が近接または類似されることによって、そのイマージュが想起されることはないというのです。

ベルグソンはここで体の役割を強調します。

問題は、現在の近くに似た無数の記憶の中から選択がされるのはなぜかということであり、ベルクソンはこれは身体の機能であるとしているのです。

つまり記憶の想起は、身体が運動(行動)するためになされるものであって、結果として想起されたイマージュ(事象と物質の間)が類似と近接どのどちらかに分類されるというのです。

その意味で、身体は絶対的な選択の道具であって、身体の運動は、生活の基本的必要から出てくるものです。


27 夢想の平面と行動の平面

ここから3章の終わりまで、細かい節が続きます。

円錐の一番下、平面との接点をSとし、円錐の一番上の平面をABとします。

Sは、現在「演じられている」心理的状態であり、ABはもっぱら「夢見られている」夢想の状態です。

Sでは記憶が圧縮され、現時点での宿命的な運行を引き起こしますが、ABでは気まぐれ、現代の言葉で言えばランダムな想起を引き起こします。

円錐状態を意識(記憶全体)とすると、感覚ー運動的状態Sは帰国に方向付けを与え、一方で円錐の重みによって記憶は圧縮され、現在の行動に組み込まれます。

この節の最後で、ベルグソンは、この方向付けを自動運動と呼び、あっしゅくの運動を併進運動と読んでいます。

どちらも記憶が現在の行動の組み込まれるために必要な運動です。


28 意識のさまざまな平面

記憶の円錐についての考察が続きます。

記憶の想起は、生活の必要上から生じる行動が原因であり、結果として記憶の類似と近接があるとのことでしたが、この節ではさらに中心的な記憶があると言っています。

ベルグソンは次のように述べています。

いつもなんらかの記憶があり、この本当の光輝を放つ諸点の周囲で、他の記憶はおぼろげにかすんでいる。

端的に言うと、良く覚えている記憶ということです。

この記憶と中心に、関連する記憶群が収縮するほど共通な形式を帯びます。つまり、円錐を下方向に移動します。

反対に、記憶が膨張するほど、個人的な形式を帯びることになる。

円錐上は無数の層からなる記憶のグラデーションになっており、上に方向にいくほど記憶が膨張します。

例として、心理小説を上げており、読み手は小説に描写にあわせて対応する観念連合を想起します。

そのため、経験を積むにつれ、意識の中に無数のことなって近接と類似の平面が存在することになります。


29 生活への注意

この節では、記憶が現実の平面に降りてくるには、生活への注意が必要であると言っています。

記憶は近接または類似による連想によってされるのではなく、あくまで生活していく上で必要な行動によって呼び起されるというものです。

これは主に1番目の運動機構として保存される記憶に該当しますが、円錐の図であったように、2番目の記憶と1番目の記憶は支えあっているため、独立して保存される記憶にも無関係ではありません。

精神とは、2つの極限、すなわち行動の平面と夢想の平面の間を貫いて走るものですが、この垂直方向の移動には、生活への注意に支えられた感覚運動の平衡が必要になります。

ベルグソンはここで、睡眠の原因として、覚醒時の活動が作り出した老廃物による自家中毒を挙げています。

これは、睡眠がデトックスの役割をもつという現代の知見と通じるものがあります。

精神的併行は、これらの原因により、感覚運動の対応が錯乱することであり、記憶自体は冒されることはないと言っています。


30 精神的平衡と身体の任務

これまでの議論から、精神的平衡を失う場合は、生活のために記憶を現実にはめ込む感覚運動的機能が不調になることであって、記憶そのものが損なわれることはないとしています。

ここで、精神的平衡が損なわれる場合は2種類あるとし、これは精神錯乱と人格分裂です。

精神錯乱の場合は、記憶間の位相は保たれ分離しないが、記憶が不安定になり、現実に向かうことができなくなる場合です。

人格分裂は、記憶は正常な位相を保つが、記憶間の連携が疎になり、結果として、統率が取れなくなる場合です。

いずれにせよ、脳が記憶の保存装置として機能するとか、脳の損傷が記憶力の損失や減退を招くと言った言説は、理論によっても事実によっても確証されません。

記憶は時間軸上に蓄積されるものであり、身体の運動感覚器官によって、近くに混入されるものであるため、その意味では記憶が脳によって管理されるのではなく、脊髄も含めた身体全体によって管理されると言えるでしょう。

知覚に対応する感覚運動性の部位の損傷が、記憶が現実との接点を見つける手掛かりを見出すことができず無力化するのです。

その意味では、身体は記憶の無力化、または忘却も司っているとも言えます。

ベルグソンは次のように述べています。

物質が我々のうちに忘却を置くということは、私達にはよくわかるのである。


31 身体の任務

この節では、今までの議論を踏まえて、唯物論と観念論、独断論と経験論などの二元論の問題を指摘し、カントの思弁的理性の無力について批判をしています。

本著では、ある意味では、心身結合、精神と身体の結合を刷新しようとしており、通説の二元論による心身結合では、人間の認識は相対的なものにとどまり、理性は無力化すると言っています。

これは究極的には、悟性が提供する延長と非延長、質と量の間の対立を正しく解決できていなことが原因であり、精神と身体は互いが互いの複写(部分集合)であると解釈していることが原因になっています。

また、人間の固有の事情として、第二の記憶の問題も絡んでいます。

動物は、生活または物質上の要求のみを満たしていればいいが、自然は、人間を空想や記憶全体に身をおけるように、設計してあるとあります。

これがどのような意味を持つのかは、後の「創造的進化」で語られるのですが、ベルグソンは次のように述べています。

「反対に人間の精神は、たえずその記憶の全体によって、身体が半ばひらいてくれる戸を押すように思われる。」

ベルグソンに特徴的な話として、このような誤った前提により、小林秀雄曰く、「行くところまでいくとどうなるか」として破綻や説明不可能性を導く点があるのですが、この節でもこれが展開されています。

ベルグソンは、記憶力は脳固有の機能でなく、物質の発出物ではないとしたうえで、延長と非延長に「ひろがり」を、質と量の間に「緊張」をもうけることによって、両者を調停します。

この「物質と記憶」の努力により、人間の認識は絶対的なものに触れ、直観はその最初の純粋さを回復し、現実との接触を取り戻すとしています。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿