十三に咲いた影:中川猪三郎と昭和裏社会の交錯(1945〜1984)
中川猪三郎(なかがわ いさぶろう)は、昭和戦後期の大阪・十三(じゅうそう)を拠点に活動した博徒であり、三代目山口組の直参幹部「中川組」の組長として知られる。十三は戦後の混乱の中で盛り場と闇市が形成された地域であり、中川は地元の愚連隊や戦災浮浪者を組織化することで、山口組の大阪北部進出の橋頭堡を築いていった。彼は三代目組長・田岡一雄の舎弟として山口組に加入し、大阪の縄張りを地元組織と調整しながら掌握していった実力者であった。
とりわけ注目されるのは、武闘派として名を馳せた山口組若頭・地道行雄との強い連携である。中川は地道の命により、大阪「キタ」地域で台頭していた柳川次郎率いる柳川組との橋渡しを行い、その吸収を実現した。この柳川組の山口組入りは、後の全国進出の布石となり、山口組の組織拡大における画期的な事例である。中川はその交渉と調整の実務にあたったとされ、地道にとっては信頼のおける懐刀的存在であった。
1960年の「明友会事件」では、山口組と在日韓国人系団体・明友会との間で大規模な抗争が勃発する。この抗争の端緒は、大阪・ミナミのクラブで中川猪三郎が明友会幹部から暴行を受けたことにあり、山口組は即座に報復を開始。地道行雄を総指揮官とし、山口組傘下の各団体が大阪市内で明友会掃討作戦を展開した。中川組は十三に設けられた作戦本部に加わり、実戦部隊の中核を担う。この抗争は約半月におよび、最終的に明友会は壊滅。山口組は悲願の大阪進出を確固たるものにしたが、その代償として中川を含む100人以上が逮捕・起訴された。
この時期、日本国内では冷戦構造の影響下で「反共産主義」が国家的な方針として強調されていた。政府与党や右翼勢力は、共産主義に対抗するため裏社会の力を利用しようとする動きを見せていた。中川猪三郎もその一角として活動していたとみられる。とくにフィクサー児玉誉士夫が提唱した「東亜同友会」構想においては、山口組の田岡一雄や関東の稲川会・町井久之(東声会)らが参加を表明し、全国の博徒組織を反共の防波堤として一本化する狙いがあった。この構想の中で、関西側の重要人物として中川の存在も注目された。実際に町井と田岡は兄弟盃を交わし、関東と関西の博徒が連携を深めるきっかけとなった。
中川猪三郎は1980年代に引退するが、彼が活躍した昭和戦後期は、博徒社会と政治・思想が深く結びついた時代であった。山口組の拡大戦略の要所にいた中川は、単なる暴力団幹部ではなく、政治的・思想的な対立軸におけるプレイヤーでもあった。その人生は、戦後日本の混沌と秩序、表社会と裏社会の交錯を体現している。
関連情報(参考資料):
- 溝口敦『山口組ドキュメント 血と抗争』三一書房 1985年
- 大下英治『首領 昭和闇の支配者』大和書房 2006年
- 山平重樹『山口組のキッシンジャーと呼ばれた男 黒澤明』徳間書店 2024年
- Wikipedia「明友会事件」「児玉誉士夫」「地道行雄」「東声会」「山口組」各項
- gooブログ「関東・関西やくざ戦争史」
- 文春オンライン「大阪・十三で血を流した昭和の抗争事件」
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