甍の下を流るる水 ―浜松町高楼と都市洪水の記―(平成十一年~平成十二年)
1990年代末から2000年初頭にかけて、日本の都市は急速な高層化と再開発の波に包まれていた。とりわけ東京都港区・浜松町エリアでは、JR、東京モノレール、大江戸線が交差する交通の要としての性格を強め、周辺には40階建以上のオフィスビルや高級ホテルが建ち並ぶようになった。
空を裂くごとく聳え立つ高楼は経済の象徴でありながら、同時に、都市の地中深くに潜む水の脅威と対峙する存在でもあった。アスファルトに覆われた都市はもはや雨水を地中に染み込ませず、一滴の雨もすべてが排水路へと流れ込む。その構造こそが、ひとたび空が裂ければ、都市の底から溢れ出す「内水氾濫」という新たな災厄を生む源であった。
この危機が現実のものとなったのが、平成十一年八月五日の「杉並豪雨」である。この局地的な集中豪雨は、東京都杉並区を中心に一時間あたり約120mmもの雨を降らせ、約7500棟の住宅を浸水させた。地下の駐車場では命が失われ、マンホールから逆流する濁水は都市の排水能力の限界を暴き出した。この惨事は、コンクリートで塗り固められた都市に「水の通り道」を再考させる契機となった。
このような背景を受け、浜松町にそびえる一棟の高層ビルにおいて、革新的な排水処理技術の導入が試みられた。40階建て、1万人の従業員を抱えるこのビルでは、以下の特性をもつ処理システムが実装された:
- 余剰汚泥の発生ゼロ:処理過程における副産物を極限まで削減し、維持管理コストを抑制。
- 薬剤の不使用:Pit調整剤や凝集剤などの化学薬品を使わず、環境負荷と運用負担を軽減。
- 高濃度BOD排水にも対応:食品工場や畜産場並みの排水にすら対応可能な浄化能力。
この成果により、1999年度の処理コストは年間2000万円以上の削減を達成し、さらに公共下水への負担を軽減するという意味で、都市全体の洪水リスク低減に資する建築的試みとして評価された。
その翌年、平成十二年九月。今度は名古屋の街が深い水に沈んだ。東海豪雨は愛知・岐阜に500mmを超える豪雨をもたらし、10万棟を超える住宅が被災。名古屋駅前の地下街は泥流に沈み、地下鉄は麻痺、駐車場では死者が出た。この災禍は、都市の「地下」という見えざる弱点を白日のもとに晒した。
この二つの水難を通じ、行政は新たな方針を打ち出してゆく:
- 雨水流出抑制施設の設置義務(東京都下水道局)
- 杉並雨水幹線の建設計画
- ビルオーナーへの貯留設備設置義務
- 国交省主導の「都市浸水対策法」の検討開始
浜松町の高層ビルに導入された排水処理技術は、このような動きに先んじて生まれた「民間発の都市防災」であり、それはまるで甍の下を静かに流れる水のように、都市の未来を静かに支える力となっていた。
このように、平成十一年から十二年という短くも濃密な時間のなかで、都市は水と向き合い、技術は災禍に応じて進化したのである。それはすなわち、都市と自然との新たな均衡を模索する時代の幕開けであった。
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