Saturday, March 29, 2025

大村憲司(おおむら・けんじ 1949年5月5日〜1998年11月18日)は日本を代表するギタリストであり作曲家・編曲家としても高い評価を受けた音楽家である。兵庫県神戸市出身。1969年にヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストのロック部門で優勝し早くから才能を認められていた。1970年にはアメリカに渡りサンフランシスコの名門ライブハウス「フィルモア・ウェスト」のステージに立つなど若くして国際的な舞台での経験を積んだ。帰国後は上智大学に進学するとともにフォークグループ「赤い鳥」に加入しプロ活動を本格化させた。

大村憲司(おおむら・けんじ 1949年5月5日〜1998年11月18日)は日本を代表するギタリストであり作曲家・編曲家としても高い評価を受けた音楽家である。兵庫県神戸市出身。1969年にヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストのロック部門で優勝し早くから才能を認められていた。1970年にはアメリカに渡りサンフランシスコの名門ライブハウス「フィルモア・ウェスト」のステージに立つなど若くして国際的な舞台での経験を積んだ。帰国後は上智大学に進学するとともにフォークグループ「赤い鳥」に加入しプロ活動を本格化させた。

1970年代を通じて「エントランス」「バンブー」「カミーノ」などのバンドを組みながらスタジオ・ミュージシャンとしても頭角を現し1980年代にはイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のサポート・ギタリストとして世界ツアーにも参加。その精緻かつ感情豊かなギタープレイは多くのファンの記憶に残っている。また山下久美子の「赤道小町ドキッ」をはじめ大江千里、本田美奈子、井上陽水、EPO、大貫妙子、加藤和彦、坂本龍一、矢野顕子など多くのアーティストの楽曲に参加し編曲やギターで作品を支えた。代表的なソロアルバムには『ファーストステップ』(1978年)、『KENJI-SHOCK』(同年)、『春がいっぱい』(1981年)、『外人天国』(1983年)などがありジャンルにとらわれない創作性とテクニックの高さで後進のミュ�
�ジシャンにも多大な影響を与えた。

その大村憲司と特に深い音楽的絆を築いたのがドラマーの村上"ポンタ"秀一である。二人は1970年代から共演を重ね井上陽水や矢野顕子、坂本龍一などのバックバンドとして多くのセッションをともにしてきた。とりわけ1981年の『春がいっぱい』、1983年の『外人天国』といったアルバムでは村上がドラムを大村がギターを担当し息の合ったリズムとメロディが高く評価された。1982年に行われた"KENJI OOMURA BAND"の全国ツアーでは伊藤広規(ベース)、難波弘之(キーボード)らとともに日本のフュージョン/ジャズ界を牽引する演奏を展開し観客を魅了した。あるライブでは大村が即興でテンポチェンジを行った際村上が即座に対応してリズムを合わせたという逸話があり両者の高度な信頼関係と音楽的感応力を象徴するエピソード
として語り継がれている。

村上秀一は生前大村との関係について「演奏中にアイコンタクトだけで会話が成立する数少ない相手だった」と語っており音楽以上の絆が存在していたことを物語っている。1998年に大村が49歳の若さで肝硬変により他界した後も村上は大村を追悼し続け彼の遺した演奏への賛辞を惜しまなかった。2003年から発表された未発表ライブ音源集『Kenji Omura Best Live Tracks』シリーズにも村上が参加したステージが収録されており二人の共演の記録は現在でも多くの音楽ファンに愛されている。

大村憲司のギターと村上"ポンタ"秀一のドラム。その交差する音の波は日本の音楽史における至高の瞬間を形作り今なお色あせることなく多くのリスナーの心に響き続けている。

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