Saturday, March 29, 2025

白菊と護送車 ― 田中角栄と石橋湛山の葬儀舞台 ― 1973〜1974年

白菊と護送車 ― 田中角栄と石橋湛山の葬儀舞台 ― 1973〜1974年

築地本願寺の前には早朝から信じられないほどの警官と黒塗りの車が集まっていた。雨上がりの石畳に白い手袋をした儀仗隊の革靴が整然と音を立てる。私は記者証を掲げながら黙々とカメラを構える同業者たちの隙間から祭壇に歩み寄る男の姿を見た。田中角栄――現職の総理大臣であり今日のこの「国葬まがい」の儀式において葬儀委員長として振る舞う男だ。

式の対象は石橋湛山。短命内閣として知られ在任期間はわずか65日だったが言論人・自由主義者としての矜持を持った反戦と平和を語る稀有な政治家だった。だがその清廉な印象とは裏腹に式場はあまりに権威的だった。捧げ銃の号令、隊列の威圧、白菊の花輪に書かれた「天皇皇后より」の文字。誰が見てもこれは内閣・自民党合同葬というより国家の意思があらわれた舞台装置だったとしか思えなかった。田中は花を捧げたあと一礼し無言のまま壇を降りる。するとその動きに呼応するように私服の警察官たちが一斉に手を鳴らし合図を送る。まるで劇中の合図のようだった。車に乗り込む彼を見て私はふと「まるで護送される凶悪犯のようだ」と思った。それほどまでに警備の動きは異様に整いすぎていた。

不思議だったのは会場に集った顔ぶれの妙な統一感だった。成田知巳――社会党の委員長でさえ何か打ち合わせたように儀式的な動きをしていた。反体制の顔をした男たちまでもがこの日は「国家」の秩序に吸い込まれていた。私はそんな彼らの表情をひとつひとつ観察しながらこれは死者を送る葬式ではなく「自民党支配」の一形態なのだと確信した。死んだ者よりも生きている政治家たちの動作ばかりが異様に整っていたからだ。

そして田中角栄。この男の「舞台」を見るたびに思うのは彼がどれほどこの国のメディアと官僚機構を操作しているかという事実だった。日本列島改造論が経済を狂乱させ物価を跳ね上げても彼はまだ巨大な支持を保っている。だがその背後にはすでに陰りがあった。カメラのシャッター音の隙間で交わされる記者同士の囁き声には「ロッキードの噂が現実になるのは時間の問題だ」といった情報が混ざっていた。だがこの日田中は何も語らず笑顔も見せずただ「権力」という衣を静かに纏って消えていった。

この葬儀を取材した私は国家とは何かを考えざるを得なかった。自由と平和を語った一人の政治家が死後その意志とは無関係に「国家の演出」の中に組み込まれていく。その演出を仕切るのは金権と権力の象徴である田中角栄だった。石橋湛山の葬儀はただの追悼ではなかった。これは国家が自己を正当化するための一つの演劇だった。

【関連情報】

石橋湛山は1973年4月に死去し葬儀は築地本願寺にて「内閣・自民党合同葬」として執り行われた。葬儀委員長は当時の内閣総理大臣・田中角栄。参列者には中村梅吉(衆議院議長)、河野謙三(参議院議長)、成田知巳(社会党委員長)、経済評論家の高橋亀吉らが名を連ね、天皇皇后からの白菊も献じられた。

当時の日本は1973年の第一次オイルショック直後で経済は狂乱物価に苦しみ田中内閣の公共投資政策は激しい批判を浴びていた。一方で田中は依然として強大な派閥を持ち政界に睨みを利かせていたが1974年末から1975年にかけてロッキード事件の兆候が表面化し翌1976年に逮捕される。

石橋湛山は在任65日ながら言論人としての矜持と反戦・平和の思想を貫いた希有な存在であり彼の葬儀が田中体制のパフォーマンス装置に吸収されていった構図は1970年代日本政治の矛盾を象徴していたといえる。

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