Thursday, March 27, 2025

天と地と人の理――ニュートン翁の事蹟記

天と地と人の理――ニュートン翁の事蹟記


1666年ロンドンでペストが猛威を振るい、ケンブリッジ大学が一時閉鎖される中、若きアイザック・ニュートンは郷里ウォールズソープの生家に戻っていた。そのある夏の日、彼は庭で静かに紅茶を飲んでいたという。ふと見上げると、一つのリンゴが木から落ちるのを目にする。なぜリンゴは斜めに飛ばず、真っすぐに地面へ落ちるのか。この疑問が、のちに「万有引力の法則」として世界の自然観を塗り替える大発見の端緒となった。

このエピソードは後年、弟子のウィリアム・ステュークリーによって記録され、神話のように語り継がれることとなる。ただし、よくある「リンゴが頭に当たった」という話は脚色されたもので、実際にはニュートン自身が「落ちる様子を見た」と語っただけである。しかし、たった一つの現象から宇宙の法則へと思考を跳躍させるこの姿勢こそ、ニュートンの天才たるゆえんであった。

その後、ケンブリッジ大学での研究と教職を経て、ニュートンは1687年に『プリンキピア』を出版。運動の三法則と万有引力の法則を体系化し、科学の歴史を決定的に変える。だが、彼の人生が理論と実験だけで満たされていたわけではない。

1696年53歳のニュートンは王立造幣局の役人としてロンドンに移り住む。当時イングランドでは偽造通貨が蔓延しており、国家の信用を揺るがす問題となっていた。ニュートンはこの難題に立ち向かい、緻密な調査と証拠収集によって悪名高き偽造者ウィリアム・チャロナーを摘発し、処刑に導く。ここに現れたのは、理論家ではなく、鋭い実務家としてのニュートンだった。

1699年には造幣局長へ昇進し、1703年には王立協会の会長に選出される。科学界の最高権威として、ニュートンは英国における知の支配者となった。しかし、この権力はやがて、一つの苦々しい知的対立へと使われることになる。――それが、ライプニッツとの微積分論争である。

ニュートンは1660年代にはすでに微積分(彼は「流率法」と呼んだ)を発見していたが、その成果を長らく未発表のままにしていた。一方、ドイツの哲学者・数学者であるゴットフリート・ライプニッツは、1684年に明快な記法とともに微積分を公表。この論文が広まると、ニュートンは「自分の発見が盗まれたのではないか」と疑い、徐々に嫉妬と警戒の念を募らせてゆく。

1704年、ニュートンは自著『光学』の付録に、自身が先に微積分を発見していたという匿名の記述を加えた。これだけでも含みのある行為だが、さらに1708年には、「ライプニッツが盗作をした」とほのめかす手紙を王立協会に送る――しかも、その手紙を書いたのは他ならぬニュートン自身である。彼は他人を装って自作自演の告発を仕掛けたのだった。

1712年には王立協会が正式に調査を行い、ニュートンが裏で主導した報告書が作成される。その報告は当然、ライプニッツに不利な内容であり、彼の名誉は大きく傷つけられた。皮肉にも、その「中立な調査報告」は、ニュートン自身が執筆したものであり、まるで自分の正当性を自ら筆で証明するかのようだった。これにより、ニュートンは知の戦争においても勝者となる。

だがこの勝利は、静かで、孤独なものであった。ライプニッツは1716年に死去するが、その報せを聞いたニュートンは「これでようやくこの戦争も終わった」と呟いたという。科学者の口から出たとは思えない、戦場帰りの老将のような言葉である。

晩年のニュートンは、ロンドン郊外ケンジントンで静かな生活を送りながら、王立協会の会長職と造幣局長を務め続けた。病に悩まされながらも、その名声は高まり、1727年84歳でその生涯を閉じると、国葬のような儀式のもと、ウェストミンスター寺院に埋葬された。科学者として、行政官として、そして知の勝者として、ニュートンはその時代における「理性の象徴」として刻まれた。

だが彼の物語が単なる成功譚でないことは、リンゴが落ちるのを見た静かな午後から始まり、誰にも知られずに書かれた告発の手紙に至るまでの過程が教えてくれる。ニュートンは、天体の運行を理解した人物であると同時に、名誉をめぐって人間的な情念に振り回された、誰よりも現実的な人間でもあったのである。

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