Saturday, April 12, 2025

「沈黙の若頭」――宅見勝と一和会抗争の記憶(1970年代〜1997年)

「沈黙の若頭」――宅見勝と一和会抗争の記憶(1970年代〜1997年)

宅見勝(たくみ・まさる)は、五代目山口組で若頭という要職を務めた実力者であり、1997年に神戸で暗殺されたことでその存在が全国に知れ渡った。しかし、彼の台頭と悲劇的な終焉の背後には、1980年代に激化した山口組と一和会の抗争、いわゆる「山一抗争」が深く関係している。

1981年、四代目山口組・竹中正久の組長就任直後、彼が暗殺されるという衝撃的な事件が起きた。この事件を契機に、跡目争いをめぐって反竹中派が山口組を離脱し、新たに一和会を結成する。一和会には加茂田重政や山本広といった直参が加わり、結果として山口組と一和会の間に全国規模の流血抗争が勃発する。これが「山一抗争」である。抗争は1984年から1989年まで続き、全国で約220件の襲撃事件が発生し、25人以上が死亡、70人以上が負傷した。暴力団の内紛としては戦後最大規模であり、警察は事実上の治安危機として山口組に対する大規模な摘発を進めた。

この抗争期、宅見勝は山口組の直参として組織に忠誠を誓い、武闘派として名を馳せることになる。大阪を本拠とする宅見組を率いながら、冷静かつ強硬な行動力で台頭していき、山口組内部でも確固たる地位を築いていった。抗争の終結とともに組織が再編される中で、宅見は組織の調整役として信頼され、1989年に五代目山口組が発足すると、組長・渡辺芳則の下で若頭に抜擢される。以後、宅見は山口組の実務面を一手に引き受け、特に対外的には穏健路線を採る「沈黙の若頭」として知られるようになる。

しかし、組織の平静は長くは続かなかった。1997年8月28日、新神戸オリエンタルホテルのティーラウンジで、宅見勝は中野会の組員によって射殺された。この事件は、前年に発生した「中野会襲撃事件」に端を発していたとされる。宅見がその事件の和解交渉を独断で進めたことに中野会が反発し、内部抗争の火種が再燃。結果として、山口組から事実上独立した中野会が、若頭である宅見を標的に報復に出たのである。銃撃は昼下がりのホテルで行われ、現場に居合わせた一般人の歯科医も流れ弾で死亡した。この事実が社会に与えた衝撃は大きく、暴力団抗争の危険性と無関係な市民への被害という現実が広く報じられた。

宅見の死は、山口組の権力構造に動揺をもたらした。若頭という組織の中心を担っていた人物の暗殺は、組内外に大きな波紋を広げることとなった。宅見組は入江禎が継承し、その後、神戸山口組の中核となる。一方で、暗殺の実行元であった中野会は、宅見事件の余波と会長の健康問題も重なり、2005年に解散する運命を辿る。

宅見勝という人物は、抗争の中で鍛え上げられ、山口組の秩序を支えた存在でありながら、その秩序を壊す火種にも巻き込まれた。彼の死は、組織の内部に潜む緊張と崩壊の連鎖を露呈し、「山口組の表の顔」とされた沈黙の若頭の最期として、今も語り継がれている。

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