【レンズ越しの沈黙――ある映像制作者の記憶より】
――1969年春の座談会にて
あの年の春、私はある雑誌の座談会に呼ばれた。話題は「ドキュメンタリー」。だがそれはただの技術論や番組論ではなかった。私たちは映像が"真実"に迫れるのか、その根源を問い直していた。
「私はカメラだ」と語った人物がいた。戯曲の中の言葉だが、その精神に私は惹かれた。主観を排し、ただ見つめること。現実をレンズを通じて観察するという姿勢。それはある意味で、私自身が何を見ているか、そして何を見たくないかを突きつけられる行為だった。
だが、別の参加者は異を唱えた。「言葉が多すぎる」「ナレーションで感情を補ってしまっている」と。ドキュメンタリーとは本当に客観の形式で成立するものなのか――誰かのストーリーではなく、誰かの視点ではなく、"もの"そのものに語らせるべきなのではないかと。
ある者は「スタジオでの収録には限界がある」と言った。確かにその通りだった。光 音 間合い……すべてが人工的になり 撮られる人もカメラの前で構えてしまう。偶然の一瞬を捉えることができた野外撮影とは異なり スタジオでは"撮られる"こと自体が現実を歪めてしまう。
そして あの番組が話題に上がった。ある新人歌手を30分間ワンカメラで追ったドキュメント。その静けさと緊張感。表情と声がずれず ただそこに"彼女"がいた。あの番組を見た時 私は少し嫉妬した。何も足さず 何も引かずに 人間の時間を映し出すこと。それがどれほど難しいかを知っていたから。
「シネマ・ヴェリテ」という言葉も出た。だがそれは単なる様式ではない。誰かは言った。「現地にカメラを持ち込むこと自体が文化を分解する」と。確かにそうだ。撮る者と撮られる者。その関係がどれほど微細な重力を空間に発生させるか 私たちは知っていた。
あるいは カメラを持つということは 神経の一部を露出させることに似ていた。街で 戦場で スタジオで。見えないはずの"痛み"や"ずれ"がフィルムに焼き付けられる。
「一億総ドキュメンタリストの時代だ」と笑った声もあった。だけど私は笑えなかった。それは 見たいものだけを撮る時代の到来でもあったから。現実は時に不快で 醜くて どうしようもない。だけどそこにこそ 私たちがカメラを向ける意味があった。
座談が終わって 春の光が窓から差し込んだ。私たちはそれぞれの現場へ戻っていった。けれど今でも あの場の言葉たちが耳に残る。
――「本当に お前はよく見ているのか?」と。
それは ドキュメンタリーという形式を通じて 世界と自分に向けられた永遠の問いだった。
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