愛媛国之双傑構想記 ― 昭和四十八年之巻
昭和四十八年(1973年)、高度経済成長の波が地方にも押し寄せる中、愛媛県では産業基盤や交通インフラの整備、観光資源の再開発などをめぐって、政財界の有力者たちによる構想が次々と打ち出された。そのなかでも注目されたのが、地域の政財界に影響力を持っていた二つの勢力、「柳川会」と「伊藤会」である。これらの名称は、いずれも有力人物を中心とした後援会組織、あるいは政策グループを指しており、それぞれの中心にいたのが実業界・運輸界の柳川会長と、文化・流通界の伊藤会長であった。
この年、全国では田中角栄による「列島改造論」が提唱され、地方都市における高速道路、港湾整備、産業団地の建設などが国家プロジェクトとして動き始めていた。愛媛県も例外ではなく、各地で開発構想が浮上していた。柳川会は、県東部の今治、四国中央市、新居浜方面の工業・運輸ネットワークを軸にした物流重視型の構想を推進していた。一方、伊藤会は松山を中心とする観光文化都市構想を掲げ、道後温泉や市街地の再整備、文化施設の充実による都市の魅力向上を目指していた。
柳川会長は、今治の運送会社を一代で拡大させた実業家であり、愛媛県東部の建設・物流業界をまとめる存在だった。彼の主導する「愛媛県南部開発促進構想」では、宇和島と松山を結ぶ産業道路を軸に、物資の流通を劇的に効率化するビジョンが描かれていた。ある議会協議では、反対派の議員が「道路建設は無駄ではないか」と主張した際、柳川会長は黙って地図とトラック運行表を机に広げ、「運送の現場は秒単位で動いとる。君らが一週間考える時間で、現場は十年分の判断しとる」と一喝したという。この発言により議場は静まり返り、彼の現場主義と合理的な視点が広く知られることとなった。
一方の伊藤会長は、松山を拠点に全国的な流通業を展開し、文化活動や教育支援にも力を注いでいた。彼の提唱した「道後温泉都市構想」では、温泉観光と芸術・文化の融合を図り、観光客の心に残る"物語性ある町づくり"を目指した。記者から「観光は一過性ではないか」と問われた際、伊藤会長は「温泉に来た人がまた来たいと思うには、心に残る物語が要る。道後は千年の湯や。人の縁も文化も千年の仕掛けができる」と語り、聴衆を魅了した。この発言はのちに「文化による地域創生」の先駆けとされることになる。
昭和四十八年、両会長は一度、「松山―今治―宇和島ラインの統合的開発」というテーマで手を組む姿勢を見せた。柳川会の物流インフラ構想と、伊藤会の観光都市構想は一見対立しているようでありながら、愛媛県全体の経済活性化という点では共通していた。しかし、補助金の分配や官僚・県議会への影響力をめぐる駆け引きは続き、周囲からは「公の場では笑顔、私の席では牽制」と冷ややかに見られていた。それでも両者の構想は、後の愛媛県の都市構造と観光産業の基盤に大きな影響を与えたとされ、いまでも「柳川の動脈」と「伊藤の物語」は、地域史の中で語り継がれている。
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