風を鎮める祈りの地誌――山梨・樫山の「風の神」と風切り松(1950年代〜1970年代)
山梨県北杜市の旧清里村・樫山集落は、冬季に八ヶ岳おろし(八ヶ岳颪)の冷たい強風が吹き下ろす風害多発地帯だった。集落の縁には幅30メートルほどの土手状のラインが走り、そこに松を植え並べて防風林を形成する。人びとはこの列状の松を「風切り松」と呼び、防風の知恵として維持してきた。風切り松の列中には、かつて風の神を祀る小祠「風の三郎社」もあり、風を"物理"と"祈り"の双方から抑える二重の仕組みが重ねられていた。
その小祠はのちに集落中心からやや離れた利根地区へ移され、地元では「権力者の意向で」と説明されるが理由は明瞭でない、と記録されている。祭祀の場の移動は、農地整理や宅地化、観光開発が進んだ戦後〜高度成長期に各地で見られた現象と重なり、風の神信仰も土地利用や地域権力の再編に影響を受けていたことがうかがえる。加えて、地域有志の現地記録でも、利根神社の脇に移された「風の三郎社」の小祠が確認されており、伝承の連続性が示される。
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樫山で風が恐れられた背景には地形と生業がある。甲府盆地北縁〜八ヶ岳南麓は冬の季節風が局地風として強まる。樫山では"八ヶ岳おろし"に合わせ、畑作や果樹の冬季作業(剪定など)の日取りにも配慮が必要だったと記述され、風は生活暦を規定する自然力だった。防風林や竹垣をめぐる説明では、北陸の砺波地方における「吹かぬ堂(風の神に祈る堂)」の例が挙がり、地域ごとに名は違えど、強風地帯に広く"風を鎮める場"が点在していたことが対比的に語られている。
風への作法は祈りだけではない。台風期や"百十日"前後の強風時期には、屋根や庭先、田畑に刃物(草刈り鎌など)を竹竿の先に縛りつけて立てる風習が、中部〜東北の広い範囲で見られたという。刃の力で悪風を切るという観念と、田畑の境界を可視化する実利が重なった所作であり、日本列島の他地域やアイヌ、ブータンなどアジア圏にも類例があると解説される。
この地域信仰は、戦前の農村社会に根をもちつつ、戦後の宅地化・観光化の波のなかで形を変えて生き残った。防風林=風切り松は"生活技術"、祠と祭祀は"関係調整の作法"として補完し合い、風を"敵"ではなく交渉相手とみなす環境観を育んだと言える。近年の郷土サイトでも、清里周辺が「風切りの里」と呼ばれ、三社参りの語りに風の三郎伝承が織り込まれていることが報告されており、物語は観光文化の中にも形を変えて残存している。
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