門回りの唄と亀女踊りの笑い―屋久島・昭和の民俗風景(1950年代)
昭和三十年代の屋久島は、まだ開発の波が本格化する以前で、古い信仰と共同体のしきたりが日常の中に息づいていた時代である。著者の記憶に描かれる「門回り」は、そうした民俗社会の生活リズムを象徴する風習だった。正月七日の夜、子どもたちは夕食を済ませると、地区ごとに集まって各家を巡り、祝い歌を歌いながら歩く。「いおうてもおす、恒例の門松、今年は木戸の松が栄えた」と唱えながら、家々の門前で声を張り上げる。その歌は単なる年始の挨拶ではなく、土地の自然と労働への感謝を込めた小さな祝詞でもあった。
子どもたちは歌い終えると餅や祝儀をもらい、最後に留守の家に集まってぜんざいを食べ、分け合う。その夜の笑い声には、地域の連帯を確かめるような温もりがあった。作者はそんな門回りの最中、ある家の肥壺に落ちるという失敗をしたという。そのエピソードは後年、屋久島の代表的な民俗芸能「亀女踊り」と響き合う記憶として語られる。亀女踊りでは、亀(カメ)と甕(カメ)とを掛け合わせた言葉遊びが展開され、男女の駆け引きをユーモラスに演じる。裏口から亀女を訪ねた男が甕に落ちる、という滑稽な筋書きは、かつての自らの失敗を思い出させ、笑いの中に共同体の記憶を重ねるようでもある。
この風習の根底には、子どもが地域の一員として社会的儀礼に初めて参加する「通過儀礼」の性格がある。正月という再生の時期に、村の家々を巡り、祝詞を唱えることは、生命の循環と稲作の豊穣を祈る行為だった。歌に登場する「うぐいす」や「飛魚」は春と海の恵みの象徴であり、豊作の前兆を告げる吉兆のモチーフである。屋久島では米の収穫量が少なく、主食はサツマイモであったため、祝歌に詠まれる「千石、二千石」という言葉には、豊かな稲穂への憧れが込められていた。現実には叶わぬ理想の農年を、子どもたちの声が夜空に描き出していたのだ。
戦後の屋久島は、木材伐採や電源開発を通じて急速に近代化が進むが、この昭和初期から三十年代にかけての民俗的風景には、まだ自然と人間が共に呼吸していた時代の気配がある。門回りの唄は、経済的豊かさを知らぬ代わりに、共同体のつながりと自然への敬意を響かせた。亀女踊りの笑いもまた、貧しさや苦労を笑い飛ばす島の知恵であり、恥を共有することで人の心を結びつける「共同のユーモア」だった。
この二つの行事は、ただの遊びや芸能ではなく、人間と自然、男と女、子どもと大人という境界をゆるやかに結び直す装置であった。屋久島の民俗に流れる笑いの力は、自然とともに生きる知恵そのものである。亀女踊りの陽気な節回しと、門回りの子どもたちの声は、今も島の夜風の中に、かすかに響いている。
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