神殺しの森―屋久島・如竹の時代(17世紀)
十七世紀の屋久島は、薩摩藩の直轄支配のもとに置かれ、資源と労働の体系的な管理が始まった時代だった。戦国の終焉とともに城普請や社寺の造営が相次ぎ、堅牢な材を求める需要が高まる。中でも屋久杉は、その耐久性と美しさから貴重な建材とされた。だが、島の人々にとって屋久杉は単なる資源ではなく、山の神が宿る神木であった。伐ることは穢れとされ、信仰と生活を支える禁忌であった。
その禁忌を破り、屋久杉伐採の口火を切ったと伝えられるのが、安房出身の儒学者・泊如竹である。如竹は島津藩に仕え、理をもって信仰を説き伏せた人物として記憶されている。伝承によれば、彼は山中に十七日こもり、斧を大杉に立てかけたという。一晩経っても木が倒れなければ、神は伐ることを許している。倒れたなら、それは神の怒りだ。この"実験"の結果、木は倒れなかった。こうして島民は伐採を受け入れ、屋久島の近代が始まったとされる。
この逸話の核心は、単なる迷信の否定ではない。信仰を破壊することなく、理によって整序し直す、いわば「儀礼化された合理化」であった。如竹は神を否定せず、神意を"現象"として翻訳したのである。その翻訳は、共同体の合意を導く知恵でもあった。山を支配の対象とする藩の経済論理と、山を畏敬する民俗的世界観。その両者の衝突を、如竹は儒学という媒介で橋渡しした。ここに、宗教と合理のせめぎ合いが劇的に展開する。
屋久杉はやがて年貢の一形態として藩の財政に組み込まれ、木材は京都や薩摩へと運び出された。だが、その繁栄の陰で、島の景観は大きく変わる。苔むした切株や倒木が今も残る森は、かつての伐採の記憶を静かに語り継いでいる。著者が「神殺し」と呼ぶのは、この時代の屋久島が信仰を代償に近代化へ踏み出したという意味である。神を殺したのではなく、神を利用して合理を導入した。その行為は、信仰と理性の協定であり、破壊と創造の分岐点でもあった。
「十七日こもる」という数字もまた象徴的である。奇数であり、半月を越える時間。人々が納得するだけの"待つ儀式"がそこにあった。風、雨、斧の重さ、木の反り。自然と人間の観察を融合させるその時間は、神意を測るための科学であり、経験の総和であった。
如竹の逸話は、宗教改革や啓蒙思想にも通じる「理と信」の交錯として読むことができる。彼の行為が屋久島に残したものは、伐採の技術や産業だけではない。合理と信仰の共存という、日本的近代の原型だった。自然への畏れと支配の均衡を求める知恵、それが後の環境保護思想へと受け継がれていく。屋久杉の森が今なお神秘を湛えているのは、神を殺したのではなく、神と理が今も語り合っているからである。
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