Monday, October 13, 2025

美川憲一 ― 哀愁と艶が交差する昭和歌謡の継承者 1960年代~1990年代

美川憲一 ― 哀愁と艶が交差する昭和歌謡の継承者 1960年代~1990年代

美川憲一(1946年長野県出身)は1965年「だけど だけど だけど」でデビュー。高度経済成長で夜の歓楽街やナイトクラブ文化が広がった1960年代半ば 都市の孤独と享楽をムード歌謡の語法で掬い上げて頭角を現した。公式プロフィールでも長い活動歴と出自が確認でき 歌手生活60周年を迎えた現在も第一線で公演を続けている。

転機は1966年「柳ヶ瀬ブルース」。岐阜 柳ヶ瀬の歓楽街を舞台に 低音の艶を効かせた語り口で夜の心理を描き 大衆の共感を得た。作詞作曲は宇佐英雄 レーベルは日本クラウン。ムード歌謡の決定打として 美川のイメージを確立した一曲である。

1972年には「さそり座の女」で妖艶な美学を前面化。挑発的な歌詞とビジュアルで演歌 歌謡曲の規範を逸脱し ジェンダー表現がまだ硬直的だった時代に 中性的な艶を茶の間へ持ち込んだ。楽曲は1972年12月発売のシングルで 美川の代表作として現在も歌い継がれる。

同時代比較では 森進一が情念の演歌 青江三奈が都会のムード歌謡で夜の情景を描いたのに対し 美川は語りと低音の粘りで人間の哀しみを演劇的に造形。夜の街の匂いを纏わせつつも どこか抽象度の高い役柄として歌の人物像を提示した点が独自だった。その結果 青春歌謡 演歌の二極に回収されない第三の歌謡の居場所を切り開いた。

1996年 淡谷のり子の米寿記念の場で 淡谷は自曲「雨のブルース」を美川へ歌い継いでほしい旨を語り話題に。戦前ブルースの伝統を戦後的な耽美と結ぶ象徴的継承として記憶されている。この出来事は 美川が昭和ブルース シャンソンの子孫として文化的重層性を帯びた瞬間でもあった。

総じて 美川憲一は都市の夜を生きる感情の陰影を 低音の艶と演劇的身振りで可視化した歌手である。「柳ヶ瀬ブルース」が社会の裏面を 「さそり座の女」が時代の規範を それぞれ美と快楽へ反転させた功績は大きい。デビュー60周年を越えた現在も 本人は新作や公演で更新を続け 昭和歌謡の継承者にして現役の表現者であり続けている。

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