Monday, October 20, 2025

鉱山の再生 —1970〜1990年代、日本が「採掘から循環へ」と転じた瞬間—

鉱山の再生 —1970〜1990年代、日本が「採掘から循環へ」と転じた瞬間—
1970年代の終わり、伊豆湯ヶ島町にあった持越鉱業所は、長年の金銀精錬の歴史を閉じ、リサイクル事業へと舵を切った。東証二部上場の中外鉱業がその舞台である。彼らは1930年代から青化法による金銀精錬を行ってきたが、1973年のオイルショックを契機に、電子機器の廃棄物や病院の廃フィルムから貴金属を回収する新しい試みを始めた。やがて1978年、伊豆大島沖地震によって堆積場が決壊し、鉱山経営の限界を痛感した同社は、採掘から完全に撤退し、リサイクルを本業に据える決断を下した。
1980年代、日本は高度経済成長の余熱を冷ましながら、資源制約と環境負荷に直面していた。バブル景気に向かう過程で、製造業は省エネルギーと資源の再利用を迫られ、「都市鉱山」という言葉が生まれる。中外鉱業の転換はその先駆けであり、廃棄物を「第二の鉱脈」と見立てる思想の萌芽だった。1990年代には環境庁がリサイクル法を施行し、通産省は休廃鉱山をリサイクルセンターとして再利用する政策を打ち出す。
持越鉱山跡は精錬工場として再生し、酸やアルカリを再利用しながら、99.999%の高純度金、99.99%の電気銀を生産する環境型工場に生まれ変わった。多目的焼成炉では機密文書を焼却し、廃液やシアンを無害化する処理まで担った。災害を経て企業が環境技術に進化するその姿は、経済合理性だけでなく、人と自然の共生を模索する日本企業の成熟を象徴している。
この伊豆の山間での変化は、単なる経営改革ではなく、時代の倫理的転換だった。自然を搾取する鉱山から、自然を保全し資源を再循環させる工場へ。中外鉱業の物語は、災害の痛みを経て「環境と経済を両立させる」という新しい日本の道を照らしたのである。

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