雑誌と電波のはざまで―1970〜80年代メディア創成期の逆風と跳躍
1970年代初頭、赤塚不二夫はギャグ漫画の自立的表現を模索し、自ら創刊した雑誌『まんがNo.1』を通して新たな挑戦に乗り出した。編集部員はわずか3名。資金難と人手不足に悩まされる中でも、雑誌文化の未来を見据え、旧作をまとめた別冊の刊行や季刊化など、作家主導の出版活動を展開した。商業出版の枠を越え、創作者が主導する時代の先駆けとして、雑誌メディアが試行錯誤の真っただ中にあった時代である。
その流れは、1980年代初頭のテレビにも引き継がれた。東京12チャンネル(現・テレビ東京)では、地上波の中でも予算が乏しく、視聴率競争からも外れた存在だった深夜帯を、表現の実験場として再定義する動きが始まっていた。若きテリー伊藤は、その先頭に立ち、常識破りの演出や企画を次々と打ち出していく。
当時の深夜番組には、テレビ業界の既成概念に対する強い違和感と反抗心が込められていた。たとえば、街角の酔客にインタビューしながら人生観を聞き出す企画や、素人を巻き込んだ一種の"実験ドキュメント"形式の番組など、今日のバラエティとは一線を画す、生々しさと即興性があった。視聴者の好奇心と感性に直接訴えかける演出は、のちに「天才・たけしの元気が出るテレビ」に引き継がれ、若者文化を深夜から社会の表舞台へと押し上げていった。
こうした自由な表現は、裏を返せば、放送コードや視聴率至上主義に縛られない環境が可能にした側面もある。テレビがまだ万能の情報装置ではなく、限られた「場」であった時代に、あえてその「場の隙間」で実験を行うという選択こそが、新たな形式を生む土壌となった。
1980年代のテレビは、バブル前夜の熱気と規範の緩みが交錯する中で、タブーの境界を探る舞台でもあった。テリー伊藤は、演出家というよりも装置設計者として、メディアという場に「揺さぶり」をかけ続けた存在であり、従来の価値観に縛られない若者たちの代弁者でもあった。その姿勢は、今なおテレビが抱える「規格化」と「予定調和」の構造に対する、反例として輝きを放っている。
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