庶民の笑顔が主役になる時―1977年、京塚昌子が照らした共感の時代(1970年代後半)
1970年代後半の日本は、73年の第一次オイルショックで物価が急騰し、戦後の高度成長が終わりを告げた。消費者物価上昇率は1973年に二桁化、74年は20%超に達し、経済成長もマイナスへ転じる。人々の志向は"上を見上げる夢"から"等身大の安心"へと移り、芸能もきらびやかな偶像崇拝から、生活者の温度に寄り添う共感型へと舵を切った。
この空気を体現したのが、テレビのホームドラマ群である。銭湯を舞台にした『時間ですよ』や『ありがとう』といったTBSの看板作は、家族や近隣共同体の手触りを前面化し、視聴者の日常と地続きの笑いと涙を描いた。『ありがとう』第4シリーズでは京塚昌子が主要キャストに据えられ、母性的で飾らない存在感が"庶民のヒロイン"像として定着していく。
一方で、スターの象徴は対照的に分岐した。沢田研二は60年代末から70年代を通じて中性的かつ前衛的なイメージでトップを走り、グラム的な華やぎを大衆歌謡に持ち込んだが、同じ時代、相撲界の黒姫山のような無骨で実直な"土のヒーロー"も人気を博した。随筆が「黒姫山がジュリーより」と記す皮肉は、虚飾と素朴、憧れと共感の綱引きそのものを映している。
京塚昌子のキャリアもまた、この価値観の転回を裏打ちする。舞台・映画・テレビで幅広く活躍した京塚は、豪奢なスター性より"生活の声"を纏った演技で信頼を得た。ホームドラマの母親像を更新したこの存在は、浅丘ルリ子らが担ってきた銀幕の洗練と並走しつつ、テレビ時代の"隣にいるヒロイン"を確立したといえる。
総じて1977年前後は、経済の冷え込みがもたらした価値観の再編が、芸能に"共感の主役交代"を起こした局面だった。厚化粧からナチュラルへ、理想像から暮らしの体温へ。笑いに織り込まれた風刺は、煌めく偶像と等身大の人間味が共存しつつも、後者に重心が移る"時代の節目"をやわらかく告げている。
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