合併処理浄化槽の対話 —1995年の水をめぐる協働の時代—
1995年の日本は、公害の時代を越えて「生活排水」という新たな環境課題に向き合い始めていた。かつては工場の排水が悪者とされたが、この頃には家庭の流しや浴室から出る水こそが、川や湖を汚す原因とされるようになっていた。政府は水質汚濁防止法を改正し、生活排水対策を強化したものの、当時の下水道普及率はわずか45%。地方では処理設備を持たぬ家庭が多く、身近な川の汚れが人々の目に見える形で広がっていた。
そんな中で注目されたのが「合併処理浄化槽」である。し尿と台所・風呂・洗濯などの排水をまとめて処理し、川へ戻す水をきれいにする装置だった。岡山県は児島湖流域の汚濁を防ぐため、全国に先駆けて条例を制定し、一定規模以上の住宅には合併処理浄化槽の設置を義務づけた。担当者は「罰則はないが、地域ぐるみで水を守る」と語り、行政の"命令"より"共働"を重んじる姿勢を見せている。そこには、中央集権的な公害対策から、住民と共に考える地方の時代への移行がにじんでいた。
一方、産業界も呼応した。名古屋のフジクリーン工業は、家庭用としては前例のない高性能浄化槽を開発し、「窒素を一リットルあたり二十ミリグラム以下に抑える」と公言した。窒素やリンの除去は当時まだ技術的に難しく、同社の挑戦は"水の科学"への新しい扉を開いた。技術者たちは、行政の会議にも参加しながら、「環境保全は技術の進歩によって支えられる」と語っていたという。そこには、企業が社会的使命として環境を語り始めた時代の熱があった。
さらに、市民の側からも独自の声が上がる。日本リサイクル運動市民の会は、有機野菜の宅配ネットワークを持ち、地域と生活を結ぶ活動を行っていた。同会は「循環式水浄化システム」と名づけた自前の合併処理浄化槽を開発し、全国に普及させようとしていた。「全国の仲間を通じて、暮らしの中から環境を変える」と語る姿には、市民が主役として環境に関わる気概があった。行政、企業、NGO――それぞれの立場が異なりながらも、水を守る一点で結びついていた。
この年は阪神・淡路大震災の年でもあり、都市のインフラが脆く、自然の前に人の営みがいかに小さいかを思い知らされた時代だった。だからこそ、下水道に頼らぬ「分散型の水処理」への関心が高まり、地域が自らの手で水環境を守る動きが芽生えたのである。合併処理浄化槽は単なる装置ではなく、地域の自立と再生を象徴する存在だった。
この「浄化槽の対話」は、国が制度をつくり、企業が技術で応え、市民が生活で支えるという三者の協働によって進められた。いまだ法も整備途上で、手探りの時代ではあったが、そこには現場の知恵と誠実な対話があった。のちに循環型社会形成推進基本法へとつながる思想の原点が、この時期の水の現場に息づいていたのである。
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