ナショナルトラスト運動から釧路湿原メガソーラー問題へ―守る主体の変化と環境民主主義の岐路 1996年3月
1970年代のナショナルトラスト運動は、市民が自らの手で自然を「買い戻す」という象徴的かつ画期的な行為を通じて始まった。高度経済成長の裏で進む開発に対し、行政の保護政策が追いつかない中で、市民が土地の所有を通じて自然を守ろうとしたことが、その最大の特徴である。知床の「100平方メートル運動」に代表されるこの運動は、国や自治体の枠を超えて、個人の倫理と地域の連帯による"民の環境行政"を実現した。すなわち「誰が自然を守るのか」という問いに、市民自らが実践的に応えた運動だった。
それから半世紀を経た現在、同じ北海道で釧路湿原を舞台に、再び「自然を守る主体」が問われている。釧路湿原では、脱炭素政策の流れを背景に、民間事業者によるメガソーラー(大規模太陽光発電)建設計画が持ち上がった。再生可能エネルギーは地球温暖化対策として位置づけられる一方で、釧路湿原は日本最大の湿地であり、ラムサール条約にも登録された貴重な生態系を有している。湿原は微細な水位変動によって成立する脆弱な環境であり、大規模造成や地盤改変が泥炭層の乾燥化を招けば、環境影響は不可逆的になる恐れがある。
ここに、1970年代と現代の構図的な差異が見える。当時のナショナルトラスト運動では、開発に対して「市民が保全のために土地を買う」ことで自然を守ろうとした。一方で現在のメガソーラー問題では、「地球温暖化対策」という大義名分のもと、開発側が環境保全を掲げて自然を改変している。この逆転は皮肉である。環境を守るための再エネが、別の自然を壊す――その矛盾をどう調整するかが、現代の環境行政と民主主義の課題となっている。
釧路湿原のケースでは、住民や環境団体が「地域の自然を地域で守るべきだ」として建設中止を求めている。これはナショナルトラストの思想と地続きにある。つまり、保全の主体は国家ではなく、現場に生きる人々の倫理的判断に委ねられるべきという考え方である。1970年代の「土地を買う市民運動」は、2020年代の「声を上げる地域運動」へと形を変えつつも、根底にあるのは同じ理念――"自然の価値を金銭では測らない"という思想だ。
ただし、現代の問題はより複雑である。ナショナルトラスト運動が「開発 vs. 保全」という単線的構図だったのに対し、メガソーラー問題は「再エネ推進 vs. 生態系保護」という、どちらも環境を掲げた争点になっている。これは環境政策の成熟の証であると同時に、その矛盾を調停できる新たな仕組み――すなわち「環境民主主義」の制度的深化が求められていることを示す。
かつてのナショナルトラストが「民が行政を補完する運動」だったのに対し、今求められているのは「行政が民の意思を調整する制度」である。釧路湿原の事例は、地域が再エネを拒絶するか受け入れるかという二項対立ではなく、再エネのあり方そのものを"地域の自然観"から再設計する契機となるだろう。もし1970年代の市民が土地を買って自然を守ったように、現代の市民が政策過程に主体的に参加し、再エネの配置や規模を共に考える社会を築けるなら、ナショナルトラスト運動の精神は新しい形で蘇る。
結局のところ、知床の「100平方メートル運動」も、釧路湿原の反メガソーラー運動も、問いは同じだ――「自然を守るために、私たちはどこまで責任を持てるのか」。その答えを次の世代に残すことこそが、ナショナルトラストの理念を現代に生かす道であり、日本の環境民主主義が成熟するか否かの分岐点なのである。
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