Monday, October 13, 2025

ナショナルトラスト運動とマルクス『資本論』における公共財――釧路湿原にみる「所有の超克」と「共有の倫理」 1996年3月

ナショナルトラスト運動とマルクス『資本論』における公共財――釧路湿原にみる「所有の超克」と「共有の倫理」 1996年3月
ナショナルトラスト運動は、私有財産の原理に支えられた資本主義社会において、自然を「共同のもの」として取り戻す試みであった。市民が土地を買い戻し、それを個人ではなく「社会のため」に保存するという発想は、マルクス『資本論』における「共有的生産関係(Gemeinwesen)」の思想と深く響き合う。すなわち、自然を単なる生産手段ではなく、人間の生存を支える"共通の基盤"とみなす考え方である。

マルクスは『資本論』の中で、自然を「人間の無償の生産条件」と呼び、資本がこれを商品化する過程を「社会的自己疎外」として批判した。自然を私有化することは、人間が自らの生存基盤を切り売りする行為であり、やがて社会的再生産そのものを破壊する。したがって、自然の保全は単なる環境運動ではなく、社会の根本構造を問い直す政治的課題でもある。ナショナルトラスト運動は、まさにこの資本主義的「囲い込み(enclosure)」に対する倫理的抵抗として誕生した。知床の「100平方メートル運動」では、開発予定地を市民が寄付で買い取り、自然を「再び公共へ返還する」運動が展開された。この「資本の論理で自然を買い戻し、資本の外に取り戻す」逆説的な実践は、所有の否定を内包した社会的行為である。

その理念は、現代の釧路湿原におけるメガソーラー問題にも連続している。釧路湿原は日本最大の湿地であり、ラムサール条約にも登録された世界的な生態系保全地域だ。しかし近年、再生可能エネルギーの名のもとに、湿原周辺で大規模な太陽光発電施設の建設が進められ、地盤改変や排水による生態系の攪乱が懸念されている。再エネ事業者は「地球温暖化対策」を掲げるが、実際には資本投資による土地利用の再商品化が起こっており、自然が再び市場に回収されつつある。ここで問われるのは、「環境のための開発」が果たして環境を守りうるのかという根本的な矛盾である。

マルクスの理論で言えば、釧路湿原の問題は「第二の囲い込み(second enclosure)」の典型例である。かつて農地や森林が私有化され労働者の生存基盤が奪われたように、現代では"再エネ投資"という名目で共有的自然が再び資本の管理下に置かれている。湿原が持つ調湿・炭素固定といった「生態系サービス」は、本来、すべての人間に無償で開かれた公共財である。だが、その土地が投資対象となる瞬間、それは社会的共有物ではなく「収益装置」へと転化してしまう。これはマルクスが批判した「自然の使用価値が交換価値に吸収される過程」に他ならない。

このような状況において、ナショナルトラスト運動の理念は再び蘇る。釧路湿原の保全を求める市民や研究者の声は、「地域の自然を地域で守る」というナショナルトラストの原則を現代に引き継ぐものだ。彼らは「自然を守ることが地域の権利である」と訴え、行政や企業の計画に対して、倫理的・科学的な対話を求めている。この姿勢は、マルクスが構想した「社会的共同所有(Gemeineigentum)」の萌芽であり、自然と社会を結ぶ新しい公共圏の形成を意味する。

マルクスが言う「自然は人類の共通遺産であり、我々はそれを次世代に引き渡すだけの管理人にすぎない」という思想は、まさに釧路湿原の文脈で再解釈されるべきである。湿原を守ることは、単なる生態系保護ではなく、資本主義的所有の暴走を抑え、社会全体が「共有の倫理」を取り戻す行為なのだ。ナショナルトラスト運動が所有の形式を転倒させたように、現代の私たちは政策や市場の枠組みを超えて、自然を再び「公共財」として再構築しなければならない。

釧路湿原が問いかけるのは、再エネ推進か環境保全かという二項対立ではない。それは、「公共とは何か」「誰のために自然を残すのか」という、より根本的な社会哲学の問題である。ナショナルトラスト運動が示した「所有を超える倫理」は、マルクスが夢見た「自由な人間と自然の再結合」への道を、今なお静かに照らしている。

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