Thursday, October 16, 2025

冬がほどけた日々 2006-2007 気候の実感と文学化の芽

冬がほどけた日々 2006-2007 気候の実感と文学化の芽

2006年の暮れ、日本のニュースやコラムには「12月がおかしい」「冬なのに二十度」という言葉が並んだ。記事は数表よりも日常の感覚を起点にし、季節の手触りの変調を語っている。東京でも年末に異様な暖かさが話題となり、年明けにはニューヨークのセントラルパークで一月として記録的な摂氏二十二度を観測。街路には半袖姿が溢れ、冬の輪郭がほどけていく感覚が共有された。

背景には、世界全体の異常な温暖化傾向がある。気象庁は二〇〇六年を観測史上一八九一年以降で三番目に高温の年とし、十二月は特に暖かかったと発表した。数字の上でも、私たちの体感を裏づける冬だった。こうした冬を日本の紙面は、体験談や街の風景の描写で綴った。気温の線グラフではなく、「マフラーを外した帰り道」「朝の空気の軽さ」といった実感の断片を集め、気候の変化を生活の言葉で語ろうとした。

この文体は、環境思想の文学化といえる。イギリスの経済学が気候危機を市場の失敗と理路整然と定式化した同時期、日本の言説は体感を入口に危機を共有していた。スターン・レビューが「気候変動は史上最大の市場の失敗」と喝破した一方で、人々はまず頬に触れる空気の異常さで事態を理解していた。

その後、感覚と感情を正面から扱う研究が進み、気候感情は不安や悲しみだけでなく、怒りや希望、行動意欲とも結びつくと整理された。体の記憶としての冬の乱れは、感情の地図づくりへとつながり、私たちは息づかいの変化を言葉にしはじめた。暮らしの言語で危機を語り、行動へつなぐための小さな革命であった。

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