Monday, October 13, 2025

メガソーラーが削る緑――岐阜と京都に見る再エネの矛盾 2020年代

メガソーラーが削る緑――岐阜と京都に見る再エネの矛盾 2020年代
岐阜県恵那市や京都府南丹市で進むメガソーラー開発は、環境保全と再生可能エネルギーの理念がぶつかり合う、現代日本の縮図である。東日本大震災後に導入された固定価格買取制度(FIT)は、再エネを普及させるはずが、太陽光発電を投資の道具に変えてしまった。山を削り、森を伐り、土地を均して建てられるパネル群は、「環境のため」という名のもとに進められ、やがて自然そのものを損なっていく。ここにあるのは、環境技術と自然保護の間に横たわる深い倫理的断層である。

岐阜県恵那市では、2018年以降に山腹斜面へ大規模なソーラーパネルが設置された。森林伐採によって保水力が失われ、豪雨時の土砂流出が頻発。住民たちは建設差し止めを求め、「自然と共に生きる権利」を訴えた。行政は手続きを理由に許可を出したが、責任の所在は曖昧なままである。

京都府南丹市でも同様に、丹波高地の山林が切り崩され、長年培われてきた里山文化が危機に晒されている。「再エネを否定はしないが、山を壊してまで行うのはおかしい」と訴える声が広がる。人々は、開発の是非ではなく、「どんな形で未来と共に生きるか」という問いを投げかけている。

背景には、政府が掲げた「グリーン成長戦略」と脱炭素化政策がある。環境を守るという大義名分の下で、地域社会の声や自然の記憶が無視され、土地が再び資本の論理に組み込まれている。ナショナルトラスト運動が目指した「地域が守る自然」は、今や「企業が利用する自然」にすり替えられた。

いま、岐阜や京都の山々が問いかけるのは、「再エネとは誰のための光か」という根源的な疑問である。太陽の恩恵を受けながら、その光で森を焼くような矛盾を抱えた社会で、真の「再生」とは何を意味するのか。メガソーラーが削った緑のあとに、私たちはどんな未来を植えることができるのか――それが、環境の時代に生きる日本人全体への問いである。

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