ごみ回収広がる東京23区――都市の循環を支えた小さな連帯 1996年3月
1990年代半ばの東京は、バブル崩壊後の経済停滞とともに、都市生活の「持続可能性」が問われる時代に入っていた。大量生産・大量消費・大量廃棄の構造が行き詰まり、都市の「ごみ問題」は社会の縮図として深刻化していた。埋立地の逼迫、清掃工場の建設反対運動、そしてリサイクル意識の高まり——それらが重なり、行政と市民の新しい協働モデルを生み出した。その象徴が、1996年に広がった東京23区のリサイクル型ごみ回収運動である。
当時、東京都では事業系ごみの有料化を控え、区ごとの自主的な分別・回収体制の整備が急務となっていた。板橋区や中央区では商店街や古紙回収業者が中心となり、行政と連携してリサイクルを推進した。従来、事業系ごみは「排出者責任」が曖昧で、焼却・埋立に頼る構造が続いていた。しかしこの時期、商店街の中で「紙を資源に戻す」「缶を再利用する」など、地域経済と環境を結ぶ小さな循環が始まり、これが年内には23区の6割に広がる見通しとされた。
背景には、1991年の「リサイクル法(容器包装リサイクル法)」制定がある。法律の施行を受け、自治体と企業が資源再利用の責務を共有する仕組みが全国的に整備されつつあった。東京23区の取り組みはその都市型応用例であり、「ごみを減らす」だけでなく「地域で資源を回す」ことを目的としていた。つまり、行政主導の清掃行政から、市民と事業者が主体となる"参加型循環社会"への転換期だったのである。
この時代、リサイクル活動は単なる環境運動にとどまらず、地域のコミュニティ形成にもつながった。商店街の集団回収や地域イベントを通じて、住民同士のつながりが再生され、経済と環境が共存する都市生活の新しい形が模索された。高度成長期に失われた「まちの共同体」が、ごみ問題をきっかけに再び息を吹き返したとも言える。
また、東京湾岸の最終処分場が逼迫する中で、「ごみを出さない社会」への意識も高まった。特に板橋区では、回収された古紙が再生工場へ直接送られ、地域内での資源循環が成立していた。これはのちの「ゼロ・エミッション都市」構想や「3R政策(リデュース・リユース・リサイクル)」の原型ともなる発想である。
1996年のこの運動は、都市が抱える矛盾への静かな抵抗だった。消費の便利さを見直し、身近な生活から資源の再循環を築こうとする姿勢は、のちの「循環型社会形成推進基本法」(2000年)の思想的な土台となった。東京23区のごみ回収拡大は、行政と市民が共に歩んだ都市再生の小さな実験であり、現代のサステナビリティ政策へと連なる原点だったのである。
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