Saturday, October 11, 2025

夜明け前の問い 若者と国家・昭和四十二年七月

夜明け前の問い 若者と国家・昭和四十二年七月

昭和四十二年の日本は、いざなぎ景気に背中を押され、車やカラーテレビやエアコンが家庭へ広がり、豊かさの速度が日常を塗り替えていた。大学進学率は上昇し、キャンパスは拡張を続け、若者はかつてより多く大学に集まった。だが豊かさと引き換えに、画一化と管理の気配が強まる。若者の胸には、国家と個人の距離をどう測るかという重い問いが沈殿していった。

その空気が裂け目として露わになったのが、同年十月の羽田空港周辺での反戦行動である。佐藤栄作首相の南ベトナム訪問に反対する学生と機動隊が衝突し、山崎博昭が死亡、多数が負傷した。国家の方角へ伸びる滑走路の脇で、若者は自分たちの声がどこまで届くのかを問うた。静かな暮らしの背後で、戦争の影と冷戦の論理が息をしていた。

一方で大学内部でも不満は積み重なり、翌年以降、東京大学や日本大学を起点に全共闘が広がる。占拠やバリケードは、制度疲労した大学運営と、学ぶことの意味をめぐる争点を露出させた。学生たちは自己を主体として立て直すことを掲げ、大学は管理強化へと傾く。この緊張は全国のキャンパスへ連鎖し、六八年から六九年の大学紛争として記憶されることになる。

本誌の対談に響く若者の言葉は、標語の反復ではない。国家は誰のためにあるのか。個人の自由はどこに置くのか。彼らは就職予備軍として整列することを拒み、社会の歯車からはみ出す勇気を模索した。問いはときに過剰で、理想はしばしば幼く、議論は拙い。それでも、制度と現実の隙間から立ち上がった素朴な違和感が、やがて大きなうねりの根となった。若者は時代の図面に自分の線を引こうとしていたのだ。

振り返れば、昭和四十二年は嵐の前の静けさだった。経済の光が強まるほど、見えない陰が濃くなる。若者と国家の距離を測り直そうとする声は、やがて社会の騒音にのみ込まれていくが、その手前にある対話の熱は今も薄れない。繁栄の表情に刻まれた細いひび。そのひびからこぼれた言葉が、時代の心拍として小さく響き続けている。

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