Friday, October 3, 2025

映画館と活動弁士 ― 大正期から震災後の新宿

映画館と活動弁士 ― 大正期から震災後の新宿

大正期の新宿は、まだ東京の中心部からは外れた地域であったが、武蔵野館の誕生が文化的な転換点を生み出した。当時の映画館は現在のようにサイレント映像を字幕だけで見せるのではなく、スクリーンの脇に立つ「活動弁士」が物語を語り、登場人物の声色を演じ分け、観客の感情を導く存在であった。武蔵野館では水野松翠といった弁士が活躍し、五味国太郎主演、花房英百合子出演の映画などを熱気あふれる調子で解説したという。観客はスクリーンと弁士の声との相乗効果に引き込まれ、まるで生の舞台を観ているかのような迫力を味わった。

当時の日本映画界は、日活や松竹といった製作会社が台頭しつつあり、映画は徐々に庶民の娯楽として定着していった。しかし1923年(大正12年)の関東大震災は東京の都市構造を大きく変え、浅草や下町の娯楽拠点が壊滅的被害を受けた。その結果、被害の少なかった新宿は新たな映画文化の中心地として浮上する。武蔵野館も震災後には洋画専門館へと舵を切り、活動弁士の役割は徐々に縮小し、代わって説明者や字幕翻訳が主流となっていった。これはサイレント映画からトーキー映画へと進む過渡期を象徴する変化でもあった。

こうして武蔵野館は、大正から昭和初期にかけて、新宿が東京における映画文化の新しい拠点となる礎を築いたのである。活動弁士の存在は一時代の風物詩として人々の記憶に残りつつ、映画館そのものが都市文化を牽引する役割へと移行していった。

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