病気や休養をめぐるやり取り ― 吉原の内側に流れる人間模様 江戸時代
吉原の遊廓は、華やかさの影に過酷な労働と健康被害が常につきまとっていた。遊女たちは朝から深夜まで客の応対に追われ、重たい衣装や化粧を身にまとい、酒宴での無理な接待に耐えねばならなかった。その結果、体調を崩すことは少なくなく、さらに当時の江戸では梅毒や結核といった伝染病が繰り返し流行し、遊女たちを蝕んでいた。病気や休養は日常の問題として常に存在したのである。
遊女が病に伏すと、まず女将や帳場の者が今日は誰を代わりに出すかを相談した。これは単なる事務的な判断にとどまらず、客を落胆させぬための駆け引きであった。常連客には若い者を付けて慰めたり、上客にはあえて「快復を待つのも粋」と伝えて機嫌を取ったりする。言葉の選び方ひとつで店の評判が左右されるため、やり取りは慎重かつ巧妙であった。
一方、同僚の遊女たちの間では病気をめぐる冗談や噂も飛び交った。「惚れ薬を盛られたのでは」などと軽口を叩き合うこともあったが、実際には過労や感染症による深刻な病が多かった。それでも辛さを笑いに変えて支え合おうとする仲間意識があり、同時に競争社会を生き抜く緊張感もあった。支えと対抗意識が同居する独特の人間模様がそこには息づいていた。
幕府は吉原を治安維持の一環として公認していたが、遊女の健康を守る仕組みは整っていなかった。そのため、病気や休養をめぐるやり取りは制度的な支援ではなく、現場の工夫や会話に頼るほかなかった。華やかな吉原の舞台裏には、こうした日常の小さなやり取りを通じて浮かび上がる、人間の切実さと弱さがあったのである。
No comments:
Post a Comment