中村屋と電話の声掛け ― 明治末期の新宿に息づく人情
明治末期、まだ新宿が繁華街としての姿を整える以前、本郷からパンの中村屋が移転してきた。当時の新宿は宿場町の名残をとどめ、近代化の途上にあった。電話は希少であり、地域の中でも限られた商家のみが所有していた。著者の家には珍しく電話があり、番号は「番町の一〇七番」と呼ばれていた。近隣には電話がなかったため、用件があれば町内の人々が著者宅に電話をかけ、通りを隔てて「中村屋さん、電話ですよ!」と声を張り上げる。その声に黒光夫人がタスキを外し慌ただしく駆けつける姿は、人情味あふれる光景であった。
この出来事は、プライバシーの概念が希薄で、地域全体が互いの生活を補い合っていた時代を象徴する。電話料金も度数制ではなく利用負担は小さく、共有が自然に受け入れられていた。また盆暮れには「三白」と呼ばれる砂糖袋が礼として贈られ、互助の精神が根付いていた。近代化の波が押し寄せる中で、新宿はまだ人と人とが直接に結び付き、温かさが暮らしに息づいていた。やがて中村屋は文化人の交流の場となり、街の歴史に深く刻まれることとなるが、その礎にはこうした素朴で情緒豊かなやりとりがあったのである。
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