Wednesday, October 15, 2025

山の声を聞く人々―昭和中期の焼畑と共同作業(一九五〇年代)

山の声を聞く人々―昭和中期の焼畑と共同作業(一九五〇年代)
昭和三〇年代の山間部では、焼畑はまだ生活の一部であった。畑を耕す土地が限られた村では、山の斜面を伐り開き、草木を乾かして火を入れる。男たちは「風を見ろ」「火が回るぞ」「水を持て」と声を掛け合い、女たちは畦を守りながら食事を運んだ。火を扱う緊張と、煙に包まれる静かな山の時間が、共同作業の一体感を生んでいた。こうした場面には、自然と人間の呼吸のような関係があり、火を使いこなす知恵が世代を越えて受け継がれていた。

当時の日本は、高度経済成長の入り口に立ちながらも、山村ではまだ貨幣経済よりも自給自足の生活が根強く残っていた。化学肥料や農薬が普及する以前、焼畑は山の養分を循環させる理にかなった方法であり、自然に対する畏れと理解に支えられていた。農家は、山を"焼く"というより"育てる"感覚を持ち、三、四年おきに畑を休ませることで再生を待った。

やがて国の林政が変わり、保安林の指定や森林法の改正によって焼畑は制限され、昭和四〇年代にはほとんど姿を消す。それでも、村の古老たちは語る。「火を知らんと、山は死ぬ」「焼くこともまた、山の手入れだった」と。焼畑の火は単なる農法ではなく、共同体を結ぶ儀式であり、自然との対話でもあった。火を囲みながら働く人々の声には、山を生かし、共に暮らす時代の息遣いが確かに残っている。

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