Friday, October 3, 2025

紀伊國屋の喫茶室 ― 昭和初期、新宿に芽吹いた文化の交差点

紀伊國屋の喫茶室 ― 昭和初期、新宿に芽吹いた文化の交差点

関東大震災後、都心の機能が一時麻痺すると、人と店は比較的被害の少なかった新宿へと流れ、街は文化と娯楽の新拠点として加速していきました。1927年、若き田辺茂一が現在地で紀伊國屋書店を創業し、ここを「街頭の大学」にするという理念のもと、書店に画廊や講堂を併設する構想を進めます。1930年には本店を改築して二階に講堂を整え、作家・芸術家・学生が交わる場としての性格が明確になりました。こうした"知の公共空間化"は、田辺自身が1928年に美術随筆誌『アルト』で示した問題意識とも響き合っています。

当時の紀伊國屋は、単なる売場を超えて文士や若者が出入りするサロンのように機能し、とりわけ井伏鱒二らの小説家が足繁く通ったことが伝えられています。こうした人の"たまり"を生むには、腰を落ち着けて語り合える喫茶空間の存在が欠かせません。戦前から戦後初期にかけて店内に喫茶室が置かれていたことは、戦後間もない1950年発行の『紀伊國屋月報』創刊期に「喫茶室」の写真が掲載されている事実からもうかがえます。書物に囲まれた喫茶は、買う・読む・語るを連続させる装置として、同店の文化的磁場を強めました。

さらに、新宿自体にも喫茶文化の厚みがありました。1927年に中村屋が喫茶部を開設し、カリーなど"モダン"なメニューで客を集めたことは象徴的で、周辺にカフェや映画館が増える中、紀伊國屋の店内喫茶・講堂・画廊は街の文化回路と直結します。のちに同店は新刊紹介誌『紀伊國屋月報』(1931年創刊)を通じて発信力を高め、戦後には前川國男設計の新宿本店ビル(1964年竣工)とホールが、その役割を都市スケールで可視化しました。現在も併設カフェの形で「本×喫茶」の関係は継承され、同店は"知の広場"として進化を続けています。

要するに、昭和初期の紀伊國屋の喫茶室は、講堂・画廊・雑誌発行と連動した"滞留の仕掛け"として機能し、作家や学生の議論を呼び込みながら、新宿を「知識のメッカ」へ押し上げた——その核心にあったのは、本と人と時間を同じ空間に留める喫茶の力でした。

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