金嬉老事件(きんきろうじけん)―報道と差別のはざまで・昭和四十三年二月
昭和四十三年二月二十、静岡県寸又峡の温泉旅館「ふじみ屋」において、在日朝鮮人の金嬉老(きんきろう)が猟銃を手に人質をとって立てこもった。この事件は、単なる犯罪ではなく、戦後日本社会の深層を照らし出す鏡となった。金は強盗傷害の容疑で追われていたが、捕まる直前に「朝鮮人であるがゆえに不当に扱われた」と主張し、報道陣を呼び寄せ、差別と社会の不正義を糾弾した。テレビや新聞が旅館前に集まり、記者会見が連日行われ、事件は全国に生中継された。戦後日本で、加害者が自らの言葉で社会を告発するという異例の構図が生まれた瞬間であった。
当時の日本は高度経済成長のさなかにあり、豊かさの陰で在日朝鮮人への差別がなお根強く残っていた。戦後の混乱期を経て経済は復興したが、社会の底流には植民地支配の記憶と民族的偏見が沈んでいた。金嬉老の「告白」は、その沈黙を破ったものとして多くの人々に衝撃を与えた。マスコミは彼を"狂気の人質犯"として報じながらも、その訴えに同情を寄せる声も多かった。やがて警察が突入し、事件は八日間の緊張の末に終結するが、のちに「報道が事件を煽った」との批判が沸き起こり、メディアのあり方を問う議論を引き起こした。
この事件を契機に、警察は「フィフル射撃班」などの対テロ・狙撃専門部隊を設け、のちの立てこもり・テロ対応の制度化につながっていく。一方で、金嬉老の発言は作家や映画人にも影響を与え、井上光晴や山本薩夫らが在日問題を正面から描く契機ともなった。つまり、この事件は単なる凶悪事件ではなく、戦後日本の「語られなかった差別」と「報道倫理の転換点」を刻むものであった。
事件後の金嬉老は服役を経て出所するが、晩年まで在日社会の矛盾を語り続けた。彼の存在は、加害者であり同時に被害者でもあるという複雑な立場を体現していた。その叫びは、戦後の繁栄の裏に隠された「見えない国境」を可視化したとも言える。金嬉老事件は、法と正義、差別と報道、暴力と社会の関係を問い続ける"昭和の良心の試練"として、今もなお語り継がれている。
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