Tuesday, September 30, 2025

水の記憶を還す小径 ― 長野県戸倉町・1990年代半ば

水の記憶を還す小径 ― 長野県戸倉町・1990年代半ば
1990年代半ばの日本は、不況と公害の困難が交錯する時期だった。都市化・下水道整備の波は地方にも押し寄せ、生活雑排水が山あいの農村地域へと浸透し始めた。水田や農業用水路が家庭排水と化学肥料の影響を受け、有機物や農薬によって汚染し、生態系がひそやかに蝕まれる現実。そんな背景の中、長野県戸倉町では、伝統と技術を織り交ぜた小さな奇蹟が紡がれた。

この町では、農業用水路を分岐させ、砕石層の間に木炭を敷き詰めた濾過装置を設置。水がこの装置をゆるやかに通過することで、木炭の多孔性と微生物作用が有機物や化学残留物を吸着・分解し、清浄化を促す仕組みだ。動力を使わず、化学薬品も不要なこの方法は、地域素材と自然の作用を最大限に活かす循環型技術といえる。

実践の成果は明らかだった。かつて姿を消していたゲンジボタルが、澄んだ流れの中で再び灯をともすようになったのである。ホタルは水の清浄さを象徴する生物として、地域住民にとって自然回復の象徴となった。やがて使用済みの木炭は粉砕され、土壌改良材として田畑へ還される。この一連の循環は、単なる浄化技術を越えて、自然と暮らしを往還させる小径のようだった。

この試みは、1992年のリオ地球サミット以降に高まった持続可能性の理念を、地方レベルで具現化した先駆的なケースと位置づけられる。地域に根ざした技術という意味では、炭を使った土壌浄化や水質改善技術は現在でも研究の対象とされており、林野庁や環境省の古木利用促進政策とも通じる。例えば、活性炭や木炭による水質浄化は、農業用水や都市排水処理での低コスト除去技術として注目されている。

戸倉町のこの物語は、豪壮な施設や大資本ではなく、身近な素材と人知の工夫によって、水の声を取り戻した「風景の再生の詩」だと私は思う。

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