光の縁に立つスクリーン 芦川いづみ 清純とモダンのあいだ(一九五三〜一九六八年)
芦川いづみは一九三五年、東京に生まれ、一九五三年に川島雄三の目に留まりデビュー。のちに日活へ移り、短い活動期間で鮮烈な足跡を残した。やわらかな透明感、抑制のきいた表情、時おりの大胆さ。それらが同時代の観客に「新しい清純」を感じさせ、やがて彼女は日活黄金期の顔のひとりになる。私生活では俳優の藤竜也と結婚して一九六八年に銀幕を降り、以後は映像出演を控えている。こうした来歴は、当時のスタジオシステムの中で育ち、頂点で身を引くスターの典型でもあった。
代表作を辿ると、まず田坂具隆の『乳母車』(一九五六年)。石原裕次郎との初共演作で、家族の秘密に揺れる女子大生を清新なタッチで演じ、以後の裕次郎作品に欠かせぬ相手役としての位置を確立した。物語は彼女の視点で家庭と社会のひび割れを映し出し、戦後メロドラマの新機軸となる。
川島雄三の傑作群でも芦川は光る。『幕末太陽傳』(一九五七年)では豪華キャストの一角として機敏な反応と瑞々しい存在感を示し、江戸情緒を疾走する群像の中で画面の温度を一段上げた。『洲崎パラダイス 赤信号』(一九五六年)では歓楽街の片隅を見つめる眼差しが、荒涼とユーモアのあわいに人間の体温を残す。後者ではそば屋の店員という小さな役柄ながら、川島演出の間合いにぴたりと寄り添い、場面の呼吸を変える。
石坂洋次郎原作の青春譚『陽のあたる坂道』(一九五八年)では、石原裕次郎と北原三枝が織るメロドラマに家族の揺らぎを差し込む姉妹像で参加した。日活の広報資料が示す通り、芦川は田代家の妹くみ子として、銀座や多摩川沿いのロケ風景に都市の明るさと陰影を置いていく。高度成長が始まり、若者文化が一気に表舞台へ出る時代。彼女の洗練はまさにその風景の標本であり、観客の等身大の憧れでもあった。
同世代の女優と比べると、浅丘ルリ子の「都会的な強さ」、南田洋子の「成熟した艶」、のちに台頭する吉永小百合の「永続する清純」に対し、芦川いづみは「揺れを抱えた清楚」で応じた印象がある。ウィットの利いた台詞回しよりも、ふとした沈黙や振り返りの一瞬に重心を置く芝居。その柔らかいレンズを通して、戦後映画が模索した新しい女性像が見えてくる。彼女が「和製オードリー・ヘプバーン」とも呼ばれた事実は、当時の受容を物語る符牒だろう。
経歴や主要フィルモグラフィ、配偶者、活動年の基礎情報は百科事典系に整備され、英語版でも一九五三年のデビューから六八年引退までの流れが簡潔にまとまっている。戦後のスタジオが量産した青春映画や風俗劇の只中で、芦川いづみは「控えめだが強い光」としてスクリーンの隅々を照らした。その光は、今日なお修復上映や回顧特集で確かめられている。
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