Monday, March 3, 2025

額縁の向こう側——1970年代、ストリップが芸術となるとき

額縁の向こう側——1970年代、ストリップが芸術となるとき

1970年代、東京の片隅でひそかに話題となった一つの演出があった。それは「額縁ショー」と呼ばれ、従来のストリップの枠を超え、演劇や美術の領域に足を踏み入れた試みだった。「東京ホリーズ」という劇団が仕掛けたこの実験は、舞台の上に額縁のようなフレームを設置し、観客の視線を限定することで、ショーを単なるストリップではなく、まるで美術作品のように仕立て上げた。裸の身体は、そこに生々しく存在しながらも、一つの芸術的表現として昇華されることを求められた。そこには、従来の官能的な見世物とは異なる、新たな意味合いが込められていた。

この額縁ショーが生まれた背景には、当時の日本社会の大きな変化が影を落としていた。1970年代は、演劇、文学、映画、そして風俗文化が交錯し、互いに影響を与え合う時代であった。アングラ演劇の隆盛はその一例であり、唐十郎率いる「状況劇場」、寺山修司の「天井桟敷」など、従来の劇場空間の枠を壊す試みが次々と行われていた。彼らの演劇はしばしば見世物小屋やストリップ劇場と結びつき、観客に対する「視線の演出」を工夫していた。額縁ショーもまた、その流れの中で生まれた、視覚と空間の実験だったのかもしれない。

一方で、1969年に起きた「四畳半襖の裏張り」事件をはじめとするポルノ規制の強化も、この動きと無縁ではなかった。過激な性表現を取り締まる圧力が高まるなか、額縁ショーは「芸術」としての装いをまとうことで、こうした規制の目をかいくぐる手法ともなり得た。そしてまた、高度経済成長が生み出した都市型娯楽の多様化のなかで、ストリップ劇場も単なる脱衣の場から「演出」を求められる時代に移り変わっていた。額縁ショーは、そうした文化の波のなかで生まれた、一つの回答だったのかもしれない。

額縁ショーに影響を与え、あるいは共鳴した人物も少なくない。唐十郎は「状況劇場」で演劇と日常の境界を曖昧にし、見世物小屋的な空間を演劇の場として取り込んだ。また、寺山修司の作品にも、視線と空間を操る実験が随所に見られた。さらに、大島渚が1976年に発表した『愛のコリーダ』は、実際の性行為を映画というフィルムのなかに落とし込み、芸術として昇華する試みだった。額縁ショーもまた、ストリップという生身の表現を、視覚的な制約を通して芸術として成り立たせようとする試みだったと言える。ストリップ界のスター、杉本エマは「脱がないストリップ」というコンセプトを掲げ、演劇性の高いパフォーマンスを行い、浅草ロック座などの劇場は歌や芝居を取り入れ、単なる裸の見世物ではない、新たな形�
�エンターテインメントを模索していた。

しかし、額縁ショーが栄えたのは長くはなかった。1980年代に入ると、風俗業界の規制が強化され、またノーパン喫茶や新しい形の娯楽が台頭することで、ストリップ劇場そのものが衰退の道をたどっていった。額縁ショーの試みも、やがて静かに消えていった。それでも、その精神は、一部のナイトクラブや小劇場の演出に残り、視線の制御を意識したショーの形として、ひそかに継承されている。

額縁ショーは、単なるストリップではなかった。むしろ、それは1970年代という時代の実験的な文化の中で生まれた、一つの挑戦だった。唐十郎、寺山修司、大島渚、杉本エマ、そして無数の名もなきパフォーマーたちが模索した「性と芸術の境界」。額縁というフレームの向こう側で繰り広げられた彼らの試みは、ストリップというものが単なる消費される対象ではなく、演劇的・視覚的表現として成立し得ることを証明してみせたのではないか。幕が下り、額縁の向こうの舞台は静寂に包まれるが、その記憶は、時代の片隅に今もひっそりと残り続けている。

No comments:

Post a Comment