水の調べに酔いしれて――吉原の名花・玉菊の物語
江戸の夜、提灯の明かりが揺れる吉原の通りを歩けば、三味線の音が遠くから聞こえてくる。その音色に耳を傾けると、そこにはただ艶やかさだけではない、心の奥底に触れるような静けさと深みがあった。そう、それこそが「水の調べ」と称された玉菊の三味線だった。
儚き音の命
1702年、玉菊はこの世に生を受けた。そしてわずか25年、1726年3月29日――彼女はひとつの花のように散った。しかし、その名は今もなお、江戸の吉原文化の中にそっと息づいている。
玉菊は、ただの遊女ではなかった。彼女は芸の道を極め、茶の湯、生け花、俳諧、琴曲、あらゆる技に通じた。だが、何よりもその名を高めたのは三味線の音だった。
ある日、吉原を訪れた文化人が彼女に「心を震わせるような旋律を聴かせてほしい」と頼んだ。玉菊は静かに三味線を構え、風がそよぐように、波がさざめくように、音を紡ぎ始めた。その旋律は、聴く者の心を優しく包み込み、そして、静かに涙を誘った。演奏が終わると、その文化人は袖でそっと目をぬぐい、「これこそが、人の心を震わせる音だ」と深く感嘆したという。
彼女が逝った後、その音を惜しんだ河東節の名手・十寸見蘭洲が「傾城水調子(けいせいみずちょうし)」を作り、彼女の冥福を祈った。それは、彼女の命を写し取ったかのような旋律だった。
酒に濡れた夜
しかし、玉菊は音の才だけではなかった。彼女は吉原随一の酒豪でもあった。杯を交わす場では、誰とでも分け隔てなく語らい、どれほど酌を重ねても、決して乱れることはなかった。
ある晩、吉原の豪商が彼女に酒比べを挑んだ。二人は杯を重ね、やがて商人の顔は赤く染まり、ついにはふらつき始めた。しかし、玉菊は変わらぬ微笑をたたえたまま、静かに盃を傾け続けた。そして豪商がついに力尽きると、彼女は軽く盃を置き、冗談めかして言った。
「私はまだ半分も飲んでおりませんよ」
その逸話が広まり、「玉菊に酒を挑むな」という言葉が吉原に生まれた。しかし、皮肉なことに、彼女自身はその酒に命を削られ、やがて静かにこの世を去った。
灯火の下で
彼女の死は、吉原の人々に深い衝撃を与えた。その新盆には、茶屋や妓楼の軒先に無数の灯籠が掲げられ、夜の吉原は柔らかな光に包まれた。その光景は「玉菊燈籠(たまぎくとうろう)」と呼ばれ、やがて吉原三景のひとつとして語り継がれるようになった。
遊女の死後にこれほどの供養が行われることは、決して普通ではない。それほどまでに、玉菊は愛されていた。
叶わぬ恋の行方
彼女を身請けしようとする者は後を絶たなかった。その中でも、ある武士は幾度となく迎え入れようとした。
「共に生きよう」
そう囁くたびに、玉菊はただ静かに微笑み、首を振った。
「私は吉原を出ることはできません」
やがて武士は訪れなくなり、彼女が逝った後、「もう二度と会えぬのならば、行く意味はない」と呟いたという。
江戸の風に残る名
玉菊の名は、吉原という浮世の中で咲き、そして儚く散った。だが、彼女の音は、今もなお風に乗り、江戸の夜に響いているのかもしれない。
灯籠の揺らめく夜、誰かがふと三味線の音を聴くとき、その旋律の奥に、彼女の面影がそっと滲んでいることだろう。
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