散茶女郎の哀しき影―江戸遊里の裏面 17~19世紀
散茶女郎とは江戸時代においてもっとも貧しい境遇に置かれた遊女を指す呼称であり、茶殻を意味する「散茶」に由来している。太夫や格子女郎のような格式ある遊女と対照的に、吉原の華やかさとは無縁で、橋のたもとや河原、盛り場の小屋や飯盛旅籠で客を取った。料金は安価で一時的な関係にとどまり、衣服は粗末、病に倒れることも多く、渡り歩きの不安定な生活を余儀なくされていた。
他の遊女との比較では、太夫が豪商や大名相手に文化的象徴とされたのに対し、格子女郎は町人でも利用できる中堅、夜鷹は非公許ながら庶民の需要を満たす存在であった。散茶女郎は夜鷹と同等かそれ以下の条件で身を売り、軽蔑の度合いは強かった。こうした呼称が生まれたのは、江戸社会が持つ厳格な階層意識を反映しており、貧困女性を可視化する役割を果たした。川柳や随筆にもしばしば登場し、吉原の光と影を描く象徴として扱われた。
さらに子どもの存在も問題であった。当時は避妊の手段が乏しく子が生まれることもあったが、医療や生活環境の劣悪さから乳児の生存率は極めて低かった。育てる余裕がない場合は寺院の子捨て場に預けられ、捨子寺や乳付け寺が受け皿となった。太夫や格子女郎の子であれば後ろ盾を得られる場合もあったが、散茶女郎の子どもは保護を受けられず記録に残ることも稀であった。こうして散茶女郎とその子どもは、江戸都市社会において最も見えにくい存在であり、貧困と女性の現実を象徴していた。
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