Saturday, August 16, 2025

間を舞う、時代を繋ぐ――花柳寿楽と日本舞踊の世紀(1918–2007)

間を舞う、時代を繋ぐ――花柳寿楽と日本舞踊の世紀(1918–2007)

二世花柳寿楽の歩みは、昭和の戦間期から戦後復興、高度成長、テレビ時代、そして平成へと連なる日本文化のダイナミズムと重なる。1932年、義兄の二代目花柳壽輔に入門。1937年には六代目尾上菊五郎が創設した日本俳優学校に学び、1948年に花柳錦之輔を名乗る。舞台の基礎を「型」で鍛えつつ、俳優教育や歌舞伎の呼吸からも感覚を取り込み、古典と近代の界面で身体を磨いた時期だった。

大きな転機は戦後である。占領期を経て劇場が再開し、伝統芸能の保存と公開が政策的に位置づけられていく。1950年の文化財保護法は保護対象を無形へ広げ、のちに「重要無形文化財(人間国宝)」の制度を整備した。舞踊の継承は家元の家内的実践から、社会的・公的な支援を受ける「文化政策の枠組み」へ移行していく。寿楽の世代は、私淑の芸を公共の制度に接続し得た最初の担い手である。

1965年、花柳寿楽を襲名。東京オリンピック後の文化投資と劇場整備、万博を頂点とする舞台産業の拡張期に、彼は古典の手を洗練させつつ創作舞踊へも踏み出した。宝塚歌劇の振付に携わるなど、大劇場・大衆メディアと日本舞踊を橋渡ししたことは象徴的で、所作の美(間、運び、視線)を現代の光学と音響の空間に適応させた実践だった。

評価は制度面でも結実する。寿楽は「人間国宝」に認定され、日本芸術院会員にも選ばれた――ただし認定年次には史料で揺れがある。日本舞踊協会の「名手」ページは1992年認定・2003年芸術院会員とする一方、家系公式サイトは1991年認定を掲げ、ウィキペディアは2002年認定・2003年芸術院会員と記す。資料間の差異はあるが、戦後文化政策の成熟が彼の到達を裏付けた点は一致する。

日本舞踊における寿楽の意義は、古典の「型」と現代の「出来事性」を両立させたことにある。間を張る静の造形、扇や足運びの呼吸、髪や衣の揺らぎまでを音曲と舞台装置に統合し、観客の時間感覚を調律する。制度化された保存(文化財保護)と、テレビ・レビュー・歌劇に代表される拡張(大衆文化)の間で、芸の核を失わずに射程を広げた点で、寿楽は昭和後期から平成の「橋」となった。

今日、三代目花柳寿楽が歌舞伎公演や現代演劇、放送・歌劇の所作指導まで活動領域を横断し、系譜の更新を続けていることも、この橋の延長線上にある。家の芸が社会の共有財へと開かれてゆく、その道筋を二世が可視化し、後継が運用していると言える。

要するに、花柳寿楽の時代は「保存」と「創造」が同時進行した世紀だった。制度が芸を守り、舞台産業が芸を拡げ、その両方を身体一つで結び直したところに、寿楽の歴史的な重みがある。

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