Thursday, August 14, 2025

**廃棄物処理の王座と綱渡りの時代 1990年代後半〜2000年前後**

**廃棄物処理の王座と綱渡りの時代 1990年代後半〜2000年前後**

最終処分場のオーナーになることは、当時の産業廃棄物業界における究極の夢であった。ダンプ一台から事業を始め、ついに巨大な処分場を手にした人物は、業界内で立志伝中の存在とされ、その姿は「王者」と称された。しかし、その実態は決して安泰な玉座ではない。建設には数十億から百億円規模の巨額投資が必要であり、土地買収、地元対策、行政協議に加えて、閉鎖後数十年に及ぶ維持管理、さらに環境事故発生時の賠償という重いリスクがつきまとう。

この背景には、1990年代以降の日本で深刻化した処分場不足がある。高度経済成長期からバブル期にかけて急増した廃棄物は、バブル崩壊後も減少せず、とくに建設廃材や製造業由来の産廃が膨大に発生していた。1991年の廃棄物処理法改正以降、規制は年を追うごとに厳格化し、加えて住民投票や訴訟、反対運動が全国で活発化したことで、新規許可は極端に難しくなった。

関連技術の面では、この時代に処分場の型式が多様化し、安定型、管理型、遮断型という三分類が明確化された。遮水シートや浸出水処理設備、観測井戸によるモニタリングといった環境保全技術が導入され、特に管理型や遮断型では高度な水処理システムが必須となった。これにより建設費は高騰し、従来の素掘りに近い安定型とは桁違いの投資が求められた。一方で、安定型処分場は依然として低コストで建設可能なため、小規模事業者にも手が届きやすく、法の基準を形式的に守る形で温存され続けた。

さらに、1999年の青森・岩手県境不法投棄事件のような大規模環境犯罪が世間を揺るがし、国民の目は廃棄物業界に厳しく注がれた。許可を受けた処分場であっても、不法投棄現場と実態が変わらない例が問題視され、行政は法改正や規制強化で対応を試みた。しかし、規制と業界慣行の間で緊張状態が続き、現場は制度の綻びを突きながらも、環境負荷低減のための技術改良を模索する時代であった。

このように「最終処分場の王者論」が成立した時代は、表舞台の栄光と裏舞台の綱渡りが同居する、制度的にも社会的にも揺れ動く時代であった。王座は輝かしく見えて、その足元は常に崩れかけていたのである。

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