2025年8月28日 星雲に宿る意識の光 ― ベルクソン「創造的進化」
ベルクソンの「創造的進化」の話なのですが、機械論と目的論は進化を説明できない、という指摘があります。要するに空間に展開してしまった後では、説明がつかないということです。
プロゲーマーの梅原大吾も「他人と比べるのではなく、過去の自分と比べるのが上達の近道だ」と語っています。これは哲学的に言えば、他人との比較は「空間に展開された他者のイメージと自分を比較する」ことであり、機械的あるいは目的論的に評価してしまう行為だといえるでしょう。空間に展開されたものによって進化や成長を測ろうとすると、かえって成長を妨げるのです。これはベルクソンの『意識と自由』とも関わりがあり、活動の意味を空間的な線や曲線に置き換えてしまうと、本来の動的な意味が見えなくなる。人間の知性を過信してはいけないのです。
ナシーム ニコラス タレブも述べていますが、人間の知性は予測のためにあるが、それは人間が構築した空間的な展開に基づく分析にすぎません。その時点で既に見えなくなっているものがあり、それに基づいて未来や進化を語るのは誤りです。上達や発展は他人との比較ではなく、過去の自分との比較によってしか測れない。歴史も同様に、過去にいくつかあった分岐の可能性を検討し、現在が偶然の積み重ねで成立していると認識することが、モラルを高める鍵になるのです。
この前提で第二章、第三章では生物の歴史が語られます。最初に意識全体が無機と有機に分岐し、有機物が植物と動物に分岐した。星雲の話が出ますが、太陽のない惑星系でも生命は発現し得たはずだという見解です。植物は太陽光をエネルギーとして蓄積できる形態をとり、クロロフィルを介して光を取り込むようになり、そこから動物へと分岐しました。つまり太陽系では光合成を基盤に植物と動物が生まれましたが、別の恒星系にも異なる生命形態は存在し得るというのがベルクソンの示唆です。
意識の問題は根底にあり、動物において意識がより明確になったのは「運動」が必要になったからです。神経系が発達し、運動とともに不確定性を蓄積することで意識が明瞭になっていく。可能な行動と実際の行動との隔たりが大きくなるほど、意識ははっきりしてくる。これが第三章への布石であり、人間はさらに道具を作り、運動機構を外在化させることで意識を解放する。その解放された意識を自己に向け、直観と知性を結びつけることが、さらなる進化の条件だとされています。
第三章では人間の位置が問われます。物質を見出すのは人間の知性であり、物質は人間的な原理、つまりエントロピーの増大として理解される。物質は宇宙全体を満たしているのではなく、意識の下降や停止の瞬間に知性によって顕在化する。したがって秩序には二種類あり、下降で現れる「消極的な秩序」と、上昇で現れる「創造的な秩序」とがある。これは音楽や芸術に宿る秩序と、物質的配置の秩序に対応しています。
人間は知性を外在化し、機械や人工知能のように分裂させることで、知性そのものの束縛から逃れることができる。そして孤独感を感じるなら、直観と結び合わせることでそれを克服できる。この点で人間は動物を超えた存在となり、さらなる進化に向かうのです。
第四章では物質と秩序の問題に立ち返ります。「物質がない」とは「何もない」ということではない。意識や宇宙全体に充満するなかで物質が顕在化しているにすぎず、全くの無は存在しない。無秩序があるように見えても、そこには逆に優位的な秩序が働いているのです。
人間は「無」を誤解し、物を作り続けては浪費し、廃棄物で自らの首を絞めている。エントロピーを無駄に増大させ、生物全体を巻き込んでいるのが現代人の最大の過ちであり、現代文明のボトルネックだとベルクソンは警鐘を鳴らしています。
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