三都の華と理屈-十八世紀後半の遊里評
十八世紀後半、日本の三大遊郭は、それぞれが独自の文化と美意識を築き上げ、競い合っていた。京・島原は古都の雅を背に、宮廷文化を背景に容姿端麗な遊女を抱えたが、金品に心を許しやすいと評された。大坂・新町は商都らしく、美貌はほどほどながらも人情に厚く愛嬌に富み、客との距離を絶妙に縮める術を持っていた。江戸・吉原は格式と礼式を重んじ、誇り高く見栄と張りを貫く一方で、やや理屈っぽい性格が指摘された。こうした評判は井原西鶴の流れを汲む風俗文学や、細見と呼ばれる遊里案内書に洒落の効いた比較として記され、当時の町人や武士の間で広く語られた。
背景には、江戸中期から後期にかけての都市文化の成熟と町人層の台頭がある。遊里は単なる歓楽の場を超えて、芸事と社交が交差する舞台となり、文人墨客や豪商、さらには武士までもが三都を行き来してその気風を味わった。島原では宮廷儀礼に似た雅やかさ、新町では商人気質が生む粋なもてなし、吉原では知的な応酬や格式ある遊びが展開された。明和から天明年間にかけての町人文化の隆盛や、俳諧・浄瑠璃・歌舞伎との結びつきも、この比較の背景を彩っている。こうして三都の遊女評は、単なる噂話を超え、各都市の文化的アイデンティティを象徴する鏡となった。
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