Sunday, August 10, 2025

所沢くぬぎ山 焼却炉の林立と規制の奔流 一九九〇年代後半から二〇〇二年ごろ

所沢くぬぎ山 焼却炉の林立と規制の奔流 一九九〇年代後半から二〇〇二年ごろ

谷の山林に小型焼却炉の煙突が並び、黒煙がたなびいた。報道はこれをダイオキシン汚染の象徴として煽り立てたが、実測では所沢だけが特別に悪いわけではない結果も示された。それでも不安は広がり、最終処分場への反発に火がつく。渦中の所沢市は補助金で市内焼却炉の全廃を決め、地域は大きく転じた。一方で制度は「一日五トン」から「時間二百キロ」へと許可単位を切り替え、カタログ一九〇キロ毎時級の小型炉が"無許可帯"の主役となる。やがてダイオキシン類特別措置法が届出閾値を定め、二次燃焼と排ガス浄化の装備が標準化した。スクラバー、サイクロン、電気集じん機、バグフィルターの組み合わせは、煙の質を分ける鍵だった。だが運転は難しい。空気供給が不足すれば不完全燃焼を生み、クリンカが固着
する。対策として乾留炉やガス化燃焼炉が導入されるが、前処理と運転管理の負担、建設費は跳ね上がる。採算は薄く、小規模自社処分の余力は痩せ、首都圏の処理は広域へ拡散していった。報道の反動で産廃は周辺市へ流れ、「所沢特需」とも呼ばれた。スクラバーは目詰まりしやすく、清掃停止が頻発、名目能力と実働の差が経営を圧迫する。熱量の高い廃プラは空気比を外せば燃え残りを生み、炉材を痛める。安定化には破砕や選別などの前処理、十分な二次燃焼温度、滞留時間の確保が要るが、コストは跳ね上がる。最終処分場の逼迫も深刻で、首都圏の中間処理は東北、北陸、近畿、四国、九州へと行き先を求め、全国に負荷を散らす構図が強まった。くぬぎ山の煙は細り、都市の廃棄物流は新たな行き場を探した。揺れ�
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