関東大震災と新宿の安堵 ― 大正十二年の街の転換点
大正十二年九月一日の関東大震災は、東京下町を中心に壊滅的な被害をもたらした。特に日本橋や浅草、本所・深川といった地域は大火に呑まれ、都市の中心機能が一時的に麻痺した。浅草の劇場や寄席、映画館もことごとく焼失し、娯楽や商業の場を失った人々は新しい拠点を求めざるを得なかった。
そのなかで比較的被害の少なかった新宿は、急速に脚光を浴びる。地盤が強固で延焼を免れたことが幸運を呼び、商人や興行師、さらには避難してきた庶民が一斉に新宿へと流れ込んだ。映画館「武蔵野館」は連日満員となり、大入袋が続出するほどの繁盛を見せた。これらの大入袋は単なる報酬を超え、商家では誇らしく壁に飾られるほどであり、新宿が新しい文化の中心地として台頭する象徴となった。
震災前まで新宿はまだ「東京の端」と見なされていたが、下町が壊滅したことで人や資本の流れが変わり、結果的に都市の重心が西へ移動する契機となった。大正モダンの風潮に乗ってカフェーや映画館が次々と開業し、街には新しい大衆文化が根付いていった。震災は悲劇であったが、その余波は新宿を「代替の都市中心」として押し上げ、昭和以降の繁華街形成の基盤を築いたのである。
つまり、壊滅した下町の喪失が逆説的に新宿を成長させる追い風となり、大正十二年は新宿が「災禍を契機に飛躍した年」として記憶されることになったのである。
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