音楽の宿命―黛敏郎の芸術観・昭和四十二年七月
昭和四十二年、日本の音楽界はまさに西欧からの自立を模索していた。戦後二十年を経て、経済が豊かさを手に入れる一方で、文化の面ではまだ欧米への憧憬と劣等感が混じり合っていた時代である。クラシック音楽の教育は西洋理論に基づき、作曲家たちはベートーヴェンやストラヴィンスキーを目標に腕を磨いたが、その模倣の延長線上に日本の音楽があるのかという問いがようやく生まれ始めていた。黛敏郎の「音楽は時代の精神の投影だ」という言葉は、そうした文化的転換期の只中で発せられたものであった。
黛は戦後世代の作曲家の中でも異彩を放つ存在だった。1950年代初頭に「X・Y・Z」や「文楽」などの前衛的作品で注目を集め、電子音楽や偶然性の手法を積極的に取り入れた。だが彼は単なる西洋的前衛の模倣にとどまらず、東洋思想と伝統音楽の融合を試みた。その姿勢は、敗戦によって断ち切られた文化の根を再び掘り起こそうとする試みでもあった。黛は「伝統とは過去の模写ではなく、今の感性を通して生きる精神である」と語り、能や雅楽の構造を現代音楽に移植しようとした。
昭和四十二年という時代は、東京オリンピック後の開放感と同時に、急速な近代化が文化の均質化を進めていた。ロックやポップスが若者の主流となり、音楽が大衆化する一方で、芸術としての音楽は存在意義を問われ始めていた。黛の芸術観はその潮流に逆らい、「音楽は時代を記録するが、時代に従属してはならない」とする強い信念に支えられていた。彼の音楽は、時代を超える精神の記録であり、同時に日本が再び文化的主体を取り戻そうとする抵抗の音でもあった。
この頃、黛は「題名のない音楽会」の司会としても知られ、現代音楽と一般大衆をつなぐ架け橋となっていた。難解な芸術を噛み砕いて語る彼の姿勢は、エリート主義と庶民文化のあいだに橋を架けようとする試みであった。その言葉の奥には、「日本の音楽が日本人の魂を表すためには、まず日本人が自分の声を聴かなければならない」という静かな信念があった。
黛敏郎の言葉「音楽は時代の精神の投影」は、単なる修辞ではなく、芸術の宿命そのものである。時代がどんな形に変わろうとも、その音に宿るものは人間の記憶であり祈りである。昭和四十二年という混沌の只中で、彼は音を通して「日本とは何か」を問うた。その問いは今もなお、時代の沈黙を破って響き続けている。
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