知的遊戯の名手——1970年代の伊丹十三と表現の美学
1970年代、日本は文化とメディアの大転換期を迎えていた。映画産業は衰退の兆しを見せ、観客はスクリーンからテレビへと流れ始めた。かつて銀幕を彩ったスターたちは、新たな居場所を求めてバラエティ番組や対談の場へと移り、文化人と芸能人の境界が曖昧になっていった。そんな時代の中で、ある種の異彩を放っていたのが、俳優・エッセイストとして知られる伊丹十三だった。彼は、洗練された知性とウィットを武器に、演技からエッセイ、テレビ、そして後の映画監督へと転身し、日本の文化界に独自の足跡を刻んだ。
1970年代の週刊誌では、伊丹十三についての議論が交わされていた。彼の演技や話し方、ちょっとした仕草に至るまで、すべてが計算され尽くしているという評価が多かった。ある者は「彼の間合いには演劇的な計算が見え隠れする」とし、また別の者は「知的な魅力がありながらも、その作られた雰囲気がどこか鼻につく」と評した。こうした意見は、彼が単なる俳優ではなく、言葉や仕草ひとつを意識的に操る表現者であったことを示している。
この時代、日本映画は存亡の危機にあった。かつての黄金時代を支えた松竹・東宝・日活などの大手映画会社は観客離れに苦しみ、新たな方向性を模索していた。代わりに勢いを増していたのは、東映の実録ヤクザ映画や日活ロマンポルノといったジャンル映画だった。だが、それらの作品に伊丹十三のようなインテリジェントなキャラクターが活躍できる場はほとんどなかった。そのため、彼は映画の世界から次第に距離を取り、エッセイストやテレビタレントとしての活動に比重を移していった。
伊丹十三は、俳優という枠にとどまらない「知識人タレント」としての立場を確立していった。1970年代、日本のメディア界では「文化人枠」の出演者が増え始め、作家の野坂昭如や五木寛之のように、文学とメディアの世界を自由に行き来する表現者が台頭していた。伊丹もまた、その流れの中にいたが、彼のスタイルは独特だった。ただの知識人ではなく、発言の端々にユーモアを交え、観客を楽しませる話術を持っていたのだ。彼は自らの発言を「作品」として演出し、まるで舞台の上に立っているかのように、知性とエンターテインメント性を巧みに融合させた。
しかし、テレビやエッセイの世界で活躍する一方で、伊丹は映画に対する未練を捨てきれなかった。彼の美意識と演出へのこだわりは、映像表現へと向かわざるを得なかったのである。そして、1984年、『お葬式』という作品で、彼はついに映画監督としてデビューを果たす。この作品は、日本の葬儀文化を独特の視点で描き、風刺とユーモアを絶妙に織り交ぜたものだった。以降、『マルサの女』『タンポポ』『あげまん』といった作品を次々と世に送り出し、彼は監督としての地位を確立していく。
1970年代に伊丹十三を巡って語られた「計算された表現者」という評価は、まさに彼の本質を突いていたのかもしれない。彼はすべてを計算し、演出し、自らの人生をもまた一つの作品として作り上げた。俳優、エッセイスト、文化人、そして映画監督——どの肩書きにも彼は満足しなかったのかもしれない。しかし、彼の生み出した作品群は、時代が変わっても色褪せることなく、今なお日本文化の中で息づいている。知的遊戯の名手・伊丹十三は、まさに1970年代の日本における「表現の美学」を体現する存在だった。
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